陸奥国 [[大沼郡]] [[野沢組>河沼郡野沢組]] &ruby(かかた){利田}村 &blanklink(大日本地誌大系第33巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220} 170コマ目 #expand(500){{{ もと加賀田に作る。寛文中(1661年~1673年)今の字に改む。 府城の西北に当り行程6里24町。 家数9軒、東西1町14間・南北50間。 北は揚川に近く三方は山廻れり。 東6町11間[[漆窪村>河沼郡野沢組漆窪村]]の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り11町40間余。 西1町48間[[尾登村>河沼郡野沢組尾登村]]の山界に至る。その村は申(西南西)に当り17町40間。 南8町[[漆窪村>河沼郡野沢組漆窪村]]の山に界ふ。 北5町[[耶麻郡大谷組利田村]]に界ひ揚川を限りとす。 **端村 ***&ruby(あはせ){合瀬} 本村より寅(東北東)の方3町20間余にあり。 家数10軒、東西1町3間・南北48間。 北は揚川に臨み三方は&ruby(たんぼ){田圃}なり。 *山川 **&ruby(おのぼりとおげ){尾登峠} 村より未(南南西)の方8町にあり。 登ること3町[[尾登村>河沼郡野沢組尾登村]]と峯を界ふ。 **揚川 端村合瀬の北20間にあり。 [[漆窪村>河沼郡野沢組漆窪村]]の境内より来り、申(西南西)の方に流るること28町余[[尾登村>河沼郡野沢組尾登村]]の界に入る。 慶長16年(1611年)8月21日地大いに震い大黒岩(大谷組利田村の境内にあり)崩れて川を塞ぎ1丈余の瀑布となり(或いは慶長の地震に岩割れて元和6年(1620年)7月の&ruby(りんう){霖雨}に水漲り件の岩&ruby(くず){頽}れこの瀑布となりしという)魚升ることを得ず。 鱒鮭の類滝下に集れるを土人さて網をもてこれを捕る。この村にては川岸より縄を下てこれに係り、大谷組利田村にては北岸の岩にそふて漁せしという。 今は滝の形なくただ&ruby(きゅうたん){急湍}なり([[利田村>耶麻郡大谷組利田村]]の条下を併せ見るべし)。 またこの川の岸に奇岩あり。水面より高こと数尺。中に3間計の&ruby(あな){坎}ありて水湛ふ。この水炎旱にも涸れることなし。土人&ruby(かまのわき){釜脇}と称し旱歳には雨を祈る所とす。 **清水 村中にあり。 周4間、&ruby(うふしみず){産清水}という。女子の初て生るる時にこの水をそそげば後に難産なしという。 *水利 **堤 村南7町にあり。 周1町、とうきん林((堂禁林か?))堤という。 延享2年(1745年)に築く。 *神社 **大澤神社 |祭神|不明| |相殿|山神| |勧請|不明| 村北4町にあり。 祭神及び勸請の初詳ならず。 鳥居あり。野沢本町伊藤対馬が司なり。 *墳墓 **塚 村西1町20間にあり。 五輪、高3尺余。 この村の者京夫にさされて上京し小町がもとに渡夫を勤め3年にして帰郷しぬ。 後星霜を経て1老女来り宿を假んといい、これを見れば小町が老衰せしなり。驚いて家に請し互いに昔の物語をして袖をしぼりぬ。かくて数日滞留しけるに小町病に染て身まかりしが、その骸を葬りし所なりそて里人小町塚と称すれどもかかる上古のものとは見えず。 このほとりより文字ある石を得ることありといえば1石1字の供養塚なるも知るえからず。 ---- -[[小野小町>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA]] -[[小野小町塚>https://komatide.web.fc2.com/gazo/fukuono/kitahaka.html]](喜多方市) -Google Map --[[小野小町塚>https://goo.gl/maps/wNVL3VhxLwaoqo6Q9]] ***尾登峠 利田村から尾登村へはいくつかルートがあるようですが、峠というからには山越ありきということで下記の道を想定してみました。すでに鉄道が整備されたあとなので当時の道とは違うと思いますが。 #image(onobori.jpg,width=350) ※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正) }}}