魚沼郡

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越後国 魚沼郡 &blanklink(大日本地誌大系第34巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179230} 77コマ目 #image(106-1.jpg, width=500) この郡は、本州の東南隅にあり。 延喜式・和名鈔に載て、古き郡なれども国史に見る所なし。 続日本紀、文武天皇大寶2年(702年)に『越中国四郡を分て越後国に属する』ことあり。 この郡及び頸城・古志・三島4郡は本越中国なりしが、この時より越後国に属するにや詳に知り難し。 節用集に、魚治に作る者は誤れり。細注に沼の出せし方宜し。また頸城郡の下に『又、伊保野と曰』と注せるもこの下に移すべし。 太平記巻十二・相模入道、武蔵・上野両国の勢に新田義貞兄弟を討べき由下知せし時、義貞宗徒の一族を集めて評定有けるに、越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て上田山を伐塞ぎ勢を付てや防ぐべきという。同三十一巻笛吹峠の軍の所に、新田義宗裁田山と信濃路に&ruby(しげ){稠}く関を居たりという。また同巻に義宗4月27日越後の津張より立て、7000余騎越中の放生津に着くと見えたるは皆この郡の事なり(上田・裁田は共に今の上田荘にて、津張郡は今の妻有荘なるべし)。 されば、この地にては専ら南朝の正朔を奉せしと見えて、正平(1346年~1370年)の年号を記せし古碑往々残れり(十日町組仁田村・小出島組江口村の条下に載す)。 今、この郡に封内付属の地300余村あり。分けて7組とす。 中央に浦佐・六日町2組あり。 東に小出島組あり。 西に十日町組あり。 南に塩沢組あり。 北に堀内・小千谷2組あり。 この地、東は陸奥国[[会津郡]]に隣り、西は本郡白河領に続き、南は上野国吾妻郡に並び、北は三島郡に界ふ。 また辰巳(南東)の方は上野国利根郡に接し、戌亥(北西)の方は刈羽郡に交わる。 東西18里32町(東は陸奥国[[会津郡]]の界枝折峠より、西は本郡白河領中屋敷村の界に至る)。 南北24里18町(南は上野国吾妻郡の界三国峠より、北は三島郡公領高梨村の界に至る)。 山多く平地少し。魚沼川・信濃川に傍て&ruby(わずか){纔}に&ruby(へいえん){平衍}の諸村あり。その余は多く山間に住す。 気候は国中の諸郡に較べれば寒気強く雪尤も深し。9月中旬より諸山に雪降り、10月より末は大抵晴日少しなり。或は一昼夜に1丈余積ることあり。この時には山村は纔に&ruby(じゅびょう){樹杪}を残して民屋を埋む。数日の間昼夜&ruby(とうか){燈火}を&ruby(とも){點}し隣里の往来なし。&ruby(はれま){霽間}を待ち高窓より出、屋上の雪を堀り門戸を通して隣家に往来す。 花候は3月上旬の頃に梅花開き、桜は下旬の頃に開く。遅き年には4月に至て一時に開く。 農務は&ruby(ぼうしゅ){芒種}の前後に早苗を取、&ruby(かんろ){寒露}の頃刈収む。 習俗は村中の&ruby(えいさく){営作}を助け農月力を通し、近隣に死者ある時の事また小兒死する時耳塞餅を造り、早稲登る時焼米を製し、収穫の後餅を製して田神を祭り、210日に風神を祭り、&ruby(たんぼ){田圃}に虫ある時虫を送り、正月14日若木の枝に団子を飾る事は会津郡に同じ。 その異なる者は、産子或は幼年の時名を命する者を烏帽子親と称し父子の親をなす。&ruby(さいしゅ){歳首}に注連飾るに&ruby(はつちやうかみ){八丁紙}とて紙2枚重ねて、幅5、6分計切掛け注連に結付く。正月14日男女田植歌を唱え&ruby(いなほ){稲穂}という者を製す。餅を&ruby(まる){圑}めて小粒となし、数十粒&ruby(いなから){稲稈}に貫き紙を裁て稲葉に象り、座の四面に縄を張てこれを飾る。15日村々の&ruby(わらべ){童部}雪山を作りその上にて鳥を追いまた村中を廻る。 2月11日&ruby(しふにこう){十二講}とて山神を祭る。男子各木を伐て小弓を造り雪を重ねて的山を築き、餅・白米・赤小豆飯を供して山神を拝して弓を射る。 7月朔日童部藁を以て小人形を作り色々の紙にて&ruby(いしょう){衣裳}を製し、村々の入口或は人家の軒に縄を張りこの人形を飾り二星に供え、7日の朝水に流す。27日&ruby(おはなまつり){尾花祭}とて強飯に&ruby(すすき){薄}の&ruby(ほ){穂}添えて諸神に供し、薄の箸にて強飯を食す。 *郷名 ***倭名鈔に出る所 -加禰 -那珂 -刺上 -&ruby(ちや){千屋} --今小千谷組に千谷・千谷川・小千谷の村々あり。千谷郷川という小川もあり。また浦佐組浦佐村毘沙門堂應永11年(1404年)の寄付状に『越後国千屋郡浦佐保普光寺御佛供田』とあり。また同所文明7年(1475年)・延徳3年(1491年)の古文書にも千屋郡あり。その頃は誤て郡と称せしにや。 ***今称する所16 -&ruby(よしたに){吉谷} -&ruby(かみかは){上川} -&ruby(うかち){宇賀地} -&ruby(ひろせ){広瀬} -&ruby(あかいし){赤石} -&ruby(おほまき){大巻} -&ruby(おほいた){大井田} -&ruby(はねかは){羽根川} -&ruby(よした){吉田} -&ruby(みさしま){美佐島} -&ruby(はんは){番場} -&ruby(とめさね){留実} -&ruby(はやかは){早川} --塩沢組大木六村龍泉院の所蔵寛政4年(1792年)の文書に、越後国上田荘早川郷北方の内并大窪名の内ということあり -&ruby(きろく){木六} --上に出す所の龍泉院の文書に、越後国上田荘木六郷長慶庵の寄進状とあり -&ruby(せき){関} -&ruby(いししろ){石白} *荘名 -&ruby(やふかみ){藪上} --或は薮神に作れり -上田 --太平記に、上田山または栽田山とあるはこの地の事を見ゆ。上田荘ということは寛政の頃(1789年~1801年)より見えたり(早川郷の下に詳なり)。 -&ruby(つまり){妻有} --太平記に津張郡とあるはこの荘の事と見ゆ *組名 -[[小千谷組>魚沼郡小千谷組]] -十日町組 -塩沢組 -六日町組 -浦佐組 -小出島組 -堀内組 *山川 **&ruby(すもんやま){守門山} 堀内組大白川新田村の北にあり。 本郡に並び少き高山にて古志・蒲原3郡に跨る。 満山岩石&ruby(ちょうじょう){重畳}し風烈しく木立なし。 東北は大白川新田村に属し、西南は本郡公領高倉村に属す。 **&ruby(こまがたけ){駒嶽} 小出島組大湯村の南にあり。 頂まで3里余。 東北は大湯村に属し、西南は浦佐組の諸村に属す。 山勢&ruby(けわ){峻}しく半腹より上は人跡通せず。寒気殊に烈しく熊猿の類なお棲むこと稀なり。ただ猟人冬月雪を踏て&ruby(すが){攀}ることを得るという。 春夏の際残雪駒の形を成す。故に名けしとぞ。 **&ruby(はつかいやま){八海山} &image(hakkaisan.jpg, width=500)※国立公文書館『新編会津風土記106』より 浦佐組大倉村の南にあり。 頂まで4里計。 東は陸奥国会津郡の諸山に続き、西南は六日町組條内谷の諸村に属し、西北は浦佐組の諸村に属す。 山上に8の池あり。因て名く。 絶頂は&ruby(きょし){鋸歯}の如く凡6の峯あり。 頂よりすこし下に八海明神の祠あり。八月朔日、遠近より参詣する者すくなからず。その夜山の半腹に数万&ruby(てん){點}の火、星の如く見ゆ。これ龍王の献する燈なりという。 また&ruby(たいないくくり){胎内潜}とて数丈の岩洞あり。 半山より上は盛夏にも雪をふみ見なれぬ&ruby(くさき){艸木}多く、&ruby(えんしょう){猿嘯}の聲&ruby(ゆうこく){幽谷}に聞こえ、雲霧の&ruby(いんせい){陰晴}常ならず物すごき地なり。 頂はますます&ruby(けんなん){嶮難}にて絶壁&ruby(しょうりつ){峭立}し、天気晴明の時には眺望尤も佳なり。 西南に信州の戸隠・浅間の2山を臨み、西北は本州の諸郡を&ruby(いつしょく){一矚}し、佐渡・能登の沖まで遥かに烟の中に見ゆるという。&ruby(かか){斯}る高山なれば、船舶の往来に中嶽・駒嶽とこの山を併せて三本嶽と唱え標準とするとぞ。 浦佐組大倉村・大崎村及び六日町組山口村3方より通路あり。 **&ruby(なかがたけ){中嶽} 八海山の東北に並び数山の奥にあり。 八海さんよりやや高しという。 水無川の源にて、人跡至ること稀に金山の&ruby(けいしょう){景象}を知る者少なし。 支峯連出して左右に環拱せり。 **&ruby(なかのまたやま){中俣山} 六日町組清水瀬村の東にあり。 清水瀬・土沢・野中・舞台・畔地・畔地新田6ヶ村に属す。 頂には大木なく&ruby(こざさ){小篠}多く生す。 数山の奥にある高山にて&ruby(おうれん){黄連}を採る者のみこの山に到るという。 遥の山奥に&ruby(こうげん){曠原}あり。その中に大なる沼見ゆ。これ奥州の小瀬沼なるべしという。 この山の辺、上州・奧州と接界の所より流れ出る川を&ruby(みくにかわ){三国川}という。 **&ruby(きんしやうやま){金城山} 塩沢組雲洞村の東南にあり。 西は雲洞村・長崎村に属し、東は六日町組中川村に属す。 山中に大さ100人計受べき岩窟あり。中に薬師の像を安じ、毎歳6月朔日参詣する者あり。 **&ruby(おほえほしやま){大烏帽子山} 同組早川村の枝村清水の南にあり。 支峯多く高山なり。 登川これより出、山中に馬峠とて上野国利根郡湯檜曽村に出る路あり。 東南は利根郡藤原村・湯檜曽村の山に連なり、西は土樽村の山に続き、北は清水と滝谷村とに属す。 **&ruby(たいけんたやま){大現太山} 同組土樽村の巳(南南東)の方にあり。 土樽村・浅貝村・早川村の枝村清水に属し、上野国利根郡の山に連なる。 山中の渓水、大現太川という。小川となり魚沼川に入る。 **&ruby(なへはやま){苗場山} 同組三俣村の西にあり。 三俣村・二居村・浅貝村に属す。 三俣村より9里計山奥にある高山にて、盛夏も雪あり。 人跡至て稀なり。 信・越接界の所に近しという。 **&ruby(いおのかわ){魚沼川} 源は塩沢組土樽村の奥、&ruby(すなのみねやま){砂峯山}より出て、大現太川を受け中野村の北にて&ruby(くしかわ){串川}流入る。大里村の北にて&ruby(のほりかわ){登川}来り注ぎ、西泉田村より六日町組に入る。二日町村の北にて&ruby(いかさはかわ){五十沢川}・&ruby(みくにかわ){三国川}と会し、下原新田村の西にて&ruby(うたさはかわ){宇田沢川}来り注ぎ、麓村より浦佐組に入る。岡新田村の西にて水無川来り注ぎ、虫野村の西にて&ruby(みよかわ){三用川}を受け、青島村より小出島組に入る。四日町村の西にて阿布留麻川と会し堀内組に入る。小屋村(小出島組)の境内を経て田川を受け、和南津村より屈曲して本郡公領の地に入る。川口村にて信濃川に入る。 広80間計。 大抵南より北に流る。 &ruby(いはな){岩魚}、&ruby(やまめ){鰥}、&ruby(かしか){杜父魚}、&ruby(はえ){鮠}、&ruby(ます){鱒}、&ruby(さけ){鮭}、&ruby(あゆ){年魚}を産す。 六日町組六日町村まで船上る。下船は1日にて六日町より長岡に達し、上船は夏月は5、6日・冬月は20日計にて漸上る。 **信濃川(&ruby(ちくまかわ){千曲川}) &image(shinano.jpg, width=500)※国立公文書館『新編会津風土記106』より 源は信州の筑摩川・犀川なり。 丹波島の辺まで一となり、本郡公領の地に入る。小黒沢村より十日町組に入る。高山村の南にて&ruby(かはちかわ){川治川}流入る。四日町村の西にて&ruby(たかわ){田川}来り注ぎ、中條村の北にて&ruby(とひたりかわ){飛渡川}を受け小千谷組に入る。岩沢村より屈曲して堀内組との間を流れ、また本郡公領に入る。魚沼川と合し牛島村よりまた小千谷組に入る。千谷村の東にて千谷郷川流入る。三佛生村より古志郡に入る。 広100間計。 河原広く水常に濁れり。 大抵南より北に流る。 十日町村より水上まで船上る。 産魚は&ruby(さけ){鮭}、&ruby(ます){鱒}、&ruby(ふな){鮒}、&ruby(あゆ){年魚}、&ruby(やつめうなき){八目鰻鱺}。 *原野 **&ruby(やいろはら){八色原} 浦佐組魚沼川の東にあり。 東西1里・南北2里。 瘠薄の地にて、沙石多く&ruby(たんぼ){田圃}墾発し難く、曠平の芝原なり。 20余区の村落に分ち属す。 水無川原中を西に流る。 *土産 **&ruby(ちちみ ふ){縮布} 諸組より出つ。 &ruby(からむし){苧麻}を績でこれを織る。皺ありて&ruby(ちりめん){縠}の如く軽薄なること蝉羽に似たり。&ruby(しま){柳條}かすりその品多く好品なり。尤も精き者は鳥獣花弁の模様、光彩目に耀く。 その始は寛文の頃(1661年~1673年)播州明石より竹屋某という者この地に来て織出す。今は次第に広まり郡中の婦女紡績せざる者なし。 年々八十八夜過ぎより7月の頃まで小千谷・十日町・堀内にて縮布市あり。京師・江戸・諸州の商人多く集り交易す。 国中第一の産物なり。 ---- -Google Map --[[守門岳>https://goo.gl/maps/5niWgxR6mSfP9bie8]] --[[越後駒ヶ岳>https://goo.gl/maps/gCQiBuEMyX1fqHPt5]](駒嶽) --八海山 ---GoogleMapで八海山とマークされている所は八海山の山頂ではありません(八海山の西、標高1364mの山の南斜面あたりにマークがある)。 ---風土記本文にもあるように八海山の山頂付近はサメの歯のようにギザギザしており、一番高いのが[[入道岳>https://goo.gl/maps/Avt1iZ9q7K9Wsd6U6]](標高1778m)で、北西に向い[[大日岳>https://goo.gl/maps/9XBbv2davQzY56mc8]](1720m)、[[剣ヶ峰>https://goo.gl/maps/rRFc9okdLREXTL4X8]](1710m)、[[魔利支岳>https://goo.gl/maps/15r7M1aavfWx72wF6]](1710m)、[[釈迦岳>https://goo.gl/maps/u2TBzgtzjbeZqLEJ6]](1690m)、[[白河岳>https://goo.gl/maps/jXzwyMgYudf8NtkNA]](1690m)、[[七曜岳(五大岳)>https://goo.gl/maps/2MWDZHTuiRQYXB5V9]](1690m)、[[不動岳>https://goo.gl/maps/wKEEzYTgwNWpwEB57]](1707m)、[[地蔵岳>https://goo.gl/maps/ArTcB7MZsGPbgBzb8]](1680m)、千本桧小屋を挟み[[薬師岳>https://goo.gl/maps/UnhPP3TVjzAhs7fz6]](1653.7m)、[[朝草岳>https://goo.gl/maps/NVKhnWSWJ8yzo8S7A]](1450m)と続きます(参考:[[新潟県と新潟県境の山>http://www2.plala.or.jp/ja0cno/sub00-01.htm]]) --[[中ノ岳>https://goo.gl/maps/v6asTt6XW5j2C3cNA]] ---中ノ岳は標高2085mで越後三山の1つとされているようです。標高/位置から考えると風土記本文にある中嶽に該当するかと(となると中俣山はどこに?) --[[金城山>https://goo.gl/maps/9EsSRAoqSbR2o8FW6]] ---西の麓に[[金城山 雲洞庵>https://goo.gl/maps/1xQZStXmGtxDsP6K6]]があります --[[大烏帽子山>https://goo.gl/maps/BngqavAahBrJeSB17]] ---馬峠とは現在の[[清水峠(清水越)>https://goo.gl/maps/YTc5oWBurTaAX2fb8]]の事かと。 --[[大源太山>https://goo.gl/maps/8MRp1xM3xQWKyT8N9]](大現太山) --[[苗場山>https://goo.gl/maps/VSHH8ASNiFJrdXWc8]] --魚沼川 - 現在の魚野川の事かと --信濃川 --八色原 ---現住所として残る[[八色原>https://goo.gl/maps/RWXVwLDjiynL8Ge26]]は狭いですが、風土記ではこの付近一帯を指していたものと思われます。 -[[『小千谷縮・越後上布』重要無形文化財指定60周年記念事業>http://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/kosodate/shougaigakushu/kouminkangyouji/1454742435901.html]](南魚沼市)
越後国 魚沼郡 &blanklink(大日本地誌大系第34巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179230} 77コマ目 #image(106-1.jpg, width=500) この郡は、本州の東南隅にあり。 延喜式・和名鈔に載て、古き郡なれども国史に見る所なし。 続日本紀、文武天皇大寶2年(702年)に『越中国四郡を分て越後国に属する』ことあり。 この郡及び頸城・古志・三島4郡は本越中国なりしが、この時より越後国に属するにや詳に知り難し。 節用集に、魚治に作る者は誤れり。細注に沼の出せし方宜し。また頸城郡の下に『又、伊保野と曰』と注せるもこの下に移すべし。 太平記巻十二・相模入道、武蔵・上野両国の勢に新田義貞兄弟を討べき由下知せし時、義貞宗徒の一族を集めて評定有けるに、越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て上田山を伐塞ぎ勢を付てや防ぐべきという。同三十一巻笛吹峠の軍の所に、新田義宗裁田山と信濃路に&ruby(しげ){稠}く関を居たりという。また同巻に義宗4月27日越後の津張より立て、7000余騎越中の放生津に着くと見えたるは皆この郡の事なり(上田・裁田は共に今の上田荘にて、津張郡は今の妻有荘なるべし)。 されば、この地にては専ら南朝の正朔を奉せしと見えて、正平(1346年~1370年)の年号を記せし古碑往々残れり(十日町組仁田村・小出島組江口村の条下に載す)。 今、この郡に封内付属の地300余村あり。分けて7組とす。 中央に浦佐・六日町2組あり。 東に小出島組あり。 西に十日町組あり。 南に塩沢組あり。 北に堀内・小千谷2組あり。 この地、東は陸奥国[[会津郡]]に隣り、西は本郡白河領に続き、南は上野国吾妻郡に並び、北は三島郡に界ふ。 また辰巳(南東)の方は上野国利根郡に接し、戌亥(北西)の方は刈羽郡に交わる。 東西18里32町(東は陸奥国[[会津郡]]の界枝折峠より、西は本郡白河領中屋敷村の界に至る)。 南北24里18町(南は上野国吾妻郡の界三国峠より、北は三島郡公領高梨村の界に至る)。 山多く平地少し。魚沼川・信濃川に傍て&ruby(わずか){纔}に&ruby(へいえん){平衍}の諸村あり。その余は多く山間に住す。 気候は国中の諸郡に較べれば寒気強く雪尤も深し。9月中旬より諸山に雪降り、10月より末は大抵晴日少しなり。或は一昼夜に1丈余積ることあり。この時には山村は纔に&ruby(じゅびょう){樹杪}を残して民屋を埋む。数日の間昼夜&ruby(とうか){燈火}を&ruby(とも){點}し隣里の往来なし。&ruby(はれま){霽間}を待ち高窓より出、屋上の雪を堀り門戸を通して隣家に往来す。 花候は3月上旬の頃に梅花開き、桜は下旬の頃に開く。遅き年には4月に至て一時に開く。 農務は&ruby(ぼうしゅ){芒種}の前後に早苗を取、&ruby(かんろ){寒露}の頃刈収む。 習俗は村中の&ruby(えいさく){営作}を助け農月力を通し、近隣に死者ある時の事また小兒死する時耳塞餅を造り、早稲登る時焼米を製し、収穫の後餅を製して田神を祭り、210日に風神を祭り、&ruby(たんぼ){田圃}に虫ある時虫を送り、正月14日若木の枝に団子を飾る事は会津郡に同じ。 その異なる者は、産子或は幼年の時名を命する者を烏帽子親と称し父子の親をなす。&ruby(さいしゅ){歳首}に注連飾るに&ruby(はつちやうかみ){八丁紙}とて紙2枚重ねて、幅5、6分計切掛け注連に結付く。正月14日男女田植歌を唱え&ruby(いなほ){稲穂}という者を製す。餅を&ruby(まる){圑}めて小粒となし、数十粒&ruby(いなから){稲稈}に貫き紙を裁て稲葉に象り、座の四面に縄を張てこれを飾る。15日村々の&ruby(わらべ){童部}雪山を作りその上にて鳥を追いまた村中を廻る。 2月11日&ruby(しふにこう){十二講}とて山神を祭る。男子各木を伐て小弓を造り雪を重ねて的山を築き、餅・白米・赤小豆飯を供して山神を拝して弓を射る。 7月朔日童部藁を以て小人形を作り色々の紙にて&ruby(いしょう){衣裳}を製し、村々の入口或は人家の軒に縄を張りこの人形を飾り二星に供え、7日の朝水に流す。27日&ruby(おはなまつり){尾花祭}とて強飯に&ruby(すすき){薄}の&ruby(ほ){穂}添えて諸神に供し、薄の箸にて強飯を食す。 *郷名 ***倭名鈔に出る所 -加禰 -那珂 -刺上 -&ruby(ちや){千屋} --今小千谷組に千谷・千谷川・小千谷の村々あり。千谷郷川という小川もあり。また浦佐組浦佐村毘沙門堂應永11年(1404年)の寄付状に『越後国千屋郡浦佐保普光寺御佛供田』とあり。また同所文明7年(1475年)・延徳3年(1491年)の古文書にも千屋郡あり。その頃は誤て郡と称せしにや。 ***今称する所16 -&ruby(よしたに){吉谷} -&ruby(かみかは){上川} -&ruby(うかち){宇賀地} -&ruby(ひろせ){広瀬} -&ruby(あかいし){赤石} -&ruby(おほまき){大巻} -&ruby(おほいた){大井田} -&ruby(はねかは){羽根川} -&ruby(よした){吉田} -&ruby(みさしま){美佐島} -&ruby(はんは){番場} -&ruby(とめさね){留実} -&ruby(はやかは){早川} --塩沢組大木六村龍泉院の所蔵寛政4年(1792年)の文書に、越後国上田荘早川郷北方の内并大窪名の内ということあり -&ruby(きろく){木六} --上に出す所の龍泉院の文書に、越後国上田荘木六郷長慶庵の寄進状とあり -&ruby(せき){関} -&ruby(いししろ){石白} *荘名 -&ruby(やふかみ){藪上} --或は薮神に作れり -上田 --太平記に、上田山または栽田山とあるはこの地の事を見ゆ。上田荘ということは寛政の頃(1789年~1801年)より見えたり(早川郷の下に詳なり)。 -&ruby(つまり){妻有} --太平記に津張郡とあるはこの荘の事と見ゆ *組名 -[[小千谷組>魚沼郡小千谷組]] -十日町組 -塩沢組 -六日町組 -浦佐組 -小出島組 -堀内組 *山川 **&ruby(すもんやま){守門山} 堀内組大白川新田村の北にあり。 本郡に並び少き高山にて古志・蒲原3郡に跨る。 満山岩石&ruby(ちょうじょう){重畳}し風烈しく木立なし。 東北は大白川新田村に属し、西南は本郡公領高倉村に属す。 **&ruby(こまがたけ){駒嶽} 小出島組大湯村の南にあり。 頂まで3里余。 東北は大湯村に属し、西南は浦佐組の諸村に属す。 山勢&ruby(けわ){峻}しく半腹より上は人跡通せず。寒気殊に烈しく熊猿の類なお棲むこと稀なり。ただ猟人冬月雪を踏て&ruby(すが){攀}ることを得るという。 春夏の際残雪駒の形を成す。故に名けしとぞ。 **&ruby(はつかいやま){八海山} &image(hakkaisan.jpg, width=500)※国立公文書館『新編会津風土記106』より 浦佐組大倉村の南にあり。 頂まで4里計。 東は陸奥国会津郡の諸山に続き、西南は六日町組條内谷の諸村に属し、西北は浦佐組の諸村に属す。 山上に8の池あり。因て名く。 絶頂は&ruby(きょし){鋸歯}の如く凡6の峯あり。 頂よりすこし下に八海明神の祠あり。八月朔日、遠近より参詣する者すくなからず。その夜山の半腹に数万&ruby(てん){點}の火、星の如く見ゆ。これ龍王の献する燈なりという。 また&ruby(たいないくくり){胎内潜}とて数丈の岩洞あり。 半山より上は盛夏にも雪をふみ見なれぬ&ruby(くさき){艸木}多く、&ruby(えんしょう){猿嘯}の聲&ruby(ゆうこく){幽谷}に聞こえ、雲霧の&ruby(いんせい){陰晴}常ならず物すごき地なり。 頂はますます&ruby(けんなん){嶮難}にて絶壁&ruby(しょうりつ){峭立}し、天気晴明の時には眺望尤も佳なり。 西南に信州の戸隠・浅間の2山を臨み、西北は本州の諸郡を&ruby(いつしょく){一矚}し、佐渡・能登の沖まで遥かに烟の中に見ゆるという。&ruby(かか){斯}る高山なれば、船舶の往来に中嶽・駒嶽とこの山を併せて三本嶽と唱え標準とするとぞ。 浦佐組大倉村・大崎村及び六日町組山口村3方より通路あり。 **&ruby(なかがたけ){中嶽} 八海山の東北に並び数山の奥にあり。 八海山よりやや高しという。 水無川の源にて、人跡至ること稀に金山の&ruby(けいしょう){景象}を知る者少なし。 支峯連出して左右に環拱せり。 **&ruby(なかのまたやま){中俣山} 六日町組清水瀬村の東にあり。 清水瀬・土沢・野中・舞台・畔地・畔地新田6ヶ村に属す。 頂には大木なく&ruby(こざさ){小篠}多く生す。 数山の奥にある高山にて&ruby(おうれん){黄連}を採る者のみこの山に到るという。 遥の山奥に&ruby(こうげん){曠原}あり。その中に大なる沼見ゆ。これ奥州の小瀬沼なるべしという。 この山の辺、上州・奧州と接界の所より流れ出る川を&ruby(みくにかわ){三国川}という。 **&ruby(きんしやうやま){金城山} 塩沢組雲洞村の東南にあり。 西は雲洞村・長崎村に属し、東は六日町組中川村に属す。 山中に大さ100人計受べき岩窟あり。中に薬師の像を安じ、毎歳6月朔日参詣する者あり。 **&ruby(おほえほしやま){大烏帽子山} 同組早川村の枝村清水の南にあり。 支峯多く高山なり。 登川これより出、山中に馬峠とて上野国利根郡湯檜曽村に出る路あり。 東南は利根郡藤原村・湯檜曽村の山に連なり、西は土樽村の山に続き、北は清水と滝谷村とに属す。 **&ruby(たいけんたやま){大現太山} 同組土樽村の巳(南南東)の方にあり。 土樽村・浅貝村・早川村の枝村清水に属し、上野国利根郡の山に連なる。 山中の渓水、大現太川という。小川となり魚沼川に入る。 **&ruby(なへはやま){苗場山} 同組三俣村の西にあり。 三俣村・二居村・浅貝村に属す。 三俣村より9里計山奥にある高山にて、盛夏も雪あり。 人跡至て稀なり。 信・越接界の所に近しという。 **&ruby(いおのかわ){魚沼川} 源は塩沢組土樽村の奥、&ruby(すなのみねやま){砂峯山}より出て、大現太川を受け中野村の北にて&ruby(くしかわ){串川}流入る。大里村の北にて&ruby(のほりかわ){登川}来り注ぎ、西泉田村より六日町組に入る。二日町村の北にて&ruby(いかさはかわ){五十沢川}・&ruby(みくにかわ){三国川}と会し、下原新田村の西にて&ruby(うたさはかわ){宇田沢川}来り注ぎ、麓村より浦佐組に入る。岡新田村の西にて水無川来り注ぎ、虫野村の西にて&ruby(みよかわ){三用川}を受け、青島村より小出島組に入る。四日町村の西にて阿布留麻川と会し堀内組に入る。小屋村(小出島組)の境内を経て田川を受け、和南津村より屈曲して本郡公領の地に入る。川口村にて信濃川に入る。 広80間計。 大抵南より北に流る。 &ruby(いはな){岩魚}、&ruby(やまめ){鰥}、&ruby(かしか){杜父魚}、&ruby(はえ){鮠}、&ruby(ます){鱒}、&ruby(さけ){鮭}、&ruby(あゆ){年魚}を産す。 六日町組六日町村まで船上る。下船は1日にて六日町より長岡に達し、上船は夏月は5、6日・冬月は20日計にて漸上る。 **信濃川(&ruby(ちくまかわ){千曲川}) &image(shinano.jpg, width=500)※国立公文書館『新編会津風土記106』より 源は信州の筑摩川・犀川なり。 丹波島の辺まで一となり、本郡公領の地に入る。小黒沢村より十日町組に入る。高山村の南にて&ruby(かはちかわ){川治川}流入る。四日町村の西にて&ruby(たかわ){田川}来り注ぎ、中條村の北にて&ruby(とひたりかわ){飛渡川}を受け小千谷組に入る。岩沢村より屈曲して堀内組との間を流れ、また本郡公領に入る。魚沼川と合し牛島村よりまた小千谷組に入る。千谷村の東にて千谷郷川流入る。三佛生村より古志郡に入る。 広100間計。 河原広く水常に濁れり。 大抵南より北に流る。 十日町村より水上まで船上る。 産魚は&ruby(さけ){鮭}、&ruby(ます){鱒}、&ruby(ふな){鮒}、&ruby(あゆ){年魚}、&ruby(やつめうなき){八目鰻鱺}。 *原野 **&ruby(やいろはら){八色原} 浦佐組魚沼川の東にあり。 東西1里・南北2里。 瘠薄の地にて、沙石多く&ruby(たんぼ){田圃}墾発し難く、曠平の芝原なり。 20余区の村落に分ち属す。 水無川原中を西に流る。 *土産 **&ruby(ちちみ ふ){縮布} 諸組より出つ。 &ruby(からむし){苧麻}を績でこれを織る。皺ありて&ruby(ちりめん){縠}の如く軽薄なること蝉羽に似たり。&ruby(しま){柳條}かすりその品多く好品なり。尤も精き者は鳥獣花弁の模様、光彩目に耀く。 その始は寛文の頃(1661年~1673年)播州明石より竹屋某という者この地に来て織出す。今は次第に広まり郡中の婦女紡績せざる者なし。 年々八十八夜過ぎより7月の頃まで小千谷・十日町・堀内にて縮布市あり。京師・江戸・諸州の商人多く集り交易す。 国中第一の産物なり。 ---- -Google Map --[[守門岳>https://goo.gl/maps/5niWgxR6mSfP9bie8]] --[[越後駒ヶ岳>https://goo.gl/maps/gCQiBuEMyX1fqHPt5]](駒嶽) --八海山 ---GoogleMapで八海山とマークされている所は八海山の山頂ではありません(八海山の西、標高1364mの山の南斜面あたりにマークがある)。 ---風土記本文にもあるように八海山の山頂付近はサメの歯のようにギザギザしており、一番高いのが[[入道岳>https://goo.gl/maps/Avt1iZ9q7K9Wsd6U6]](標高1778m)で、北西に向い[[大日岳>https://goo.gl/maps/9XBbv2davQzY56mc8]](1720m)、[[剣ヶ峰>https://goo.gl/maps/rRFc9okdLREXTL4X8]](1710m)、[[魔利支岳>https://goo.gl/maps/15r7M1aavfWx72wF6]](1710m)、[[釈迦岳>https://goo.gl/maps/u2TBzgtzjbeZqLEJ6]](1690m)、[[白河岳>https://goo.gl/maps/jXzwyMgYudf8NtkNA]](1690m)、[[七曜岳(五大岳)>https://goo.gl/maps/2MWDZHTuiRQYXB5V9]](1690m)、[[不動岳>https://goo.gl/maps/wKEEzYTgwNWpwEB57]](1707m)、[[地蔵岳>https://goo.gl/maps/ArTcB7MZsGPbgBzb8]](1680m)、千本桧小屋を挟み[[薬師岳>https://goo.gl/maps/UnhPP3TVjzAhs7fz6]](1653.7m)、[[朝草岳>https://goo.gl/maps/NVKhnWSWJ8yzo8S7A]](1450m)と続きます(参考:[[新潟県と新潟県境の山>http://www2.plala.or.jp/ja0cno/sub00-01.htm]]) --[[中ノ岳>https://goo.gl/maps/v6asTt6XW5j2C3cNA]] ---中ノ岳は標高2085mで越後三山の1つとされているようです。標高(『八海山よりやや高し』の記述)から考えてこれが(中俣山ではなく)中嶽と思われます。ただ、風土記本文では中嶽は八海山の東北にあると記載されていますが、この山は南東にあります。 --[[金城山>https://goo.gl/maps/9EsSRAoqSbR2o8FW6]] ---西の麓に[[金城山 雲洞庵>https://goo.gl/maps/1xQZStXmGtxDsP6K6]]があります --[[大烏帽子山>https://goo.gl/maps/BngqavAahBrJeSB17]] ---馬峠とは現在の[[清水峠(清水越)>https://goo.gl/maps/YTc5oWBurTaAX2fb8]]の事かと。 --[[大源太山>https://goo.gl/maps/8MRp1xM3xQWKyT8N9]](大現太山) --[[苗場山>https://goo.gl/maps/VSHH8ASNiFJrdXWc8]] --魚沼川 - 現在の魚野川の事かと --信濃川 --八色原 ---現住所として残る[[八色原>https://goo.gl/maps/RWXVwLDjiynL8Ge26]]は狭いですが、風土記ではこの付近一帯を指しているのかと。 -[[『小千谷縮・越後上布』重要無形文化財指定60周年記念事業>http://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/kosodate/shougaigakushu/kouminkangyouji/1454742435901.html]](南魚沼市)

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