祭神 |
瀛津嶋姫命 |
鎮座 |
不明 |
村南1里22町、布引山の東麓にあり。
深山幽谷の間なれば数十歩の間林木蓊蔚として日光を翳し、泉石幽邃にしていとかみさびたり。
社の前に菅谷地とて多くの菅の生する所あり。旱魃の時神職桑名氏潔齋して菅を採れば甘雨必ず降るという。
また社の後なる山に風穴数多あり。
この社は延喜式神名帳に載する所にして鎮座の初詳ならず。古は神宮社職も数員ありしにや。今は村に禰宜内の名あるも古神職の居し遺趾なりとぞ。何頃よりか社頭零落して草莾の中に形計の小祠のみ残り、社前に多く生すれば俗に菅明神と唱来りしが、正徳元年(1711年)3月神職桑名河内尚永という者吉田家に請て神號を旧に復す。
肥後守正容、家臣に命じて神殿を経営せしむ。享保16年(1731年)11月6日回禄に罹りしが、同17年(1732年)6月、正容家臣に命じて本の如に造らしむ。
6月23日、同24日両日を以て恒例の祭日とす。
祭神は瀛津嶋姫命なり。
御手洗川
即ち菅川の源なり。
瀑布あり。高3丈計、菅滝と唱ふ。
旱歳に雨を祷る所なり。
通夜殿
3間に2間。鳥居の前にあり。
鳥居
両柱の間8尺。
本社
3尺7寸四面、南向き。
幣殿
1間四面。
拝殿
4間に2間。
神供所
1間四面。
神職 桑名豊前
先祖は下総国より来り桑野氏を称す。後今の氏に改む。
何頃より神事を掌りしにか詳ならず。7代の祖を弾正道永という。天正中(1573年~1593年)中地村の地頭伊藤氏に仕しが、中地の館陥て後来て禰宜内に住すという。弾正が曽孫を河内尚永という。尚永より4世にして今の豊前久道に至る。
- Google Map
- 隠津島神社(Wikipedia)
- 隠津島神社(玄松子の記録)
- 延喜式(国立国会図書館)
余談。
瀛津嶋姫命は宗像三神の1柱である市杵嶋姫の別名です。
宗像三神は天照大御神と須佐之男命の誓約を行った時に霧から生まれた女神で、日本書記の第一の一書には
- 沖津宮 - 瀛津嶋姫
- 中津宮 - 湍津姫
- 辺津宮 - 田心姫
とあり、三柱で最初に生まれた女神と記載されています。
福岡県の宗像大社が総社で、当社も筑紫国宇佐郡(福岡県)から勧請したと由緒書きにあります。
隠津島神社の解説板より引用します(一部略)。
隠津島神社略記
社 号 延喜式内 隠津島神社
御祭神 市杵島姫命
多紀理姫命
多岐津姫命
三女神は、陸上、海上の交通安全・五穀豊穣・商売繁盛の守護神である。
旧社格 郷社
大祭日 七月二十三日・二十四日・二十五日
末 社 若木神社・八幡神社
御祭神は少彦名命・誉田別命の二神を祀り医薬・武神の神として崇敬されている。
由緒
第五十六代清和天皇の御代貞観八年六月(西暦八六六年今から約千百年位前)筑紫の国宇佐郡(現在の福岡県宗像市)に鎮座する宗像大社より勧請し隠津島神社の号を復した。境内に菅谷地があり菅草の多く生すずるに菅明神やお菅様とも称えられている。又、その昔、干ばつの時にそお菅草を採り社前に捧げ雨祈をすれば必ず降雨したと伝えられている。(特にその菅草は桑野氏を神官とし菅滝で身を清め採取される)神官桑野氏は後に桑野を桑名に氏を改め代々桑名家が宮司として奉仕し現在に至っている。寛永年間(西暦十六三〇年頃)松平正之中将入部ありて後、当社式内社たることの詮議あり、正徳元年(西暦一七一一年)三月第一一四代中御門天皇の御代式内社たる証をもって延喜式内社隠津島神社と忍せられ同年間藩候肥後守(松平正容)家臣に命じ新たに御神殿以下を造営修復された。その後尾度々修繕を重ね明治二十二年六月(西暦十八八九年)明治天皇の御代に神殿幣殿拝殿を改築し現在に至り更に補修造営されている。
隠津島神社は総て宗像三社(奥津宮、中津宮、辺津宮)に擬しており、本社より南約五キロメートル余り布引山の南麓黒沢と云う処に瀑布の傍ら峡谷の頂に小社を営み宗像の奥津宮に順じ干ばつに雨を祈る処とした。又、本社より東約四キロメートル余り高井原山の東麓三代の地内字栃窪、東西約七十二メートル南北約三十六メートル余りの処に菅の生たる沼があり栃の老樹一株、周囲約四メートル余りあり、この社を辺津宮に準じたと伝えたれている。何時の頃よりか布引山の小社は廃絶し、三代に鎮座する御社とこの隠津島神社の御社とがあるのみである。
最終更新:2022年08月05日 15:12