安積郡福良組福良村

陸奥国 安積郡 福良組 福良(ふくら)
大日本地誌大系第34巻 18コマ目

村北に鶴山・亀山とげ2の小山あり。この鶴亀の名に拠て、祝して福甫と名くという。今は転じて福良に作る。

府城の東に当り行程5里34町余。
家数134軒、東西6町28間・南北3町。

白川街道を挟み南北両頬に連なり、東端にて南に折る。
西の入口を古町と称し、その次を中町と称し、東端を荒町と称し、村中より北に出る小路を新町と称す。また、南の方に裏町あり。
東は山を擁し三方に田圃(たんぼ)を闢く。

白川街道駅所にて村中に本陣を置き、官より令せらるる掟条目の制札あり。
赤津村駅より20町48間ここに継ぎ、ここより33町33間三代村駅に継ぐ。

村西白川街道に一里塚あり。

東18町29間三代村の界に至る。その村は卯辰(東~東南東の間)に当り29町10間余。
西9町4間余赤津村の界に至る。その村は酉戌(西~西北西の間)に当り14町余。
南16町32間馬入新田村の界に至る。その村まで22町。
北18町浜坪村の界に至る。その村まで23町。

端村

山崎(やまさき)

本村より辰巳(南東)の方10町余にあり。
家数7軒、東西57間・南北41間。
東は山に倚り、西は田圃なり。

筧口(とひのくち)

本村の南10町50間余にあり。
家数6軒、東西28間・南北34間。
東は山に倚り西は田畝なり。

中沢(なかさは)

筧口の南1町40間余にあり。
家居1軒、山麓に住し西南に菜圃(さいほ)あり。

伊羅沢(いらさは)

中沢の東2町にあり。
家居1軒、山間に住し南に田圃(たんぼ)あり。

大窪(おほくほ)

中沢の南2町50間にあり。
家数4軒、東西12間・南北40間余。
東南は山に倚り北は田畝なり。

入宇田(いりうた)

大窪の南1町にあり。
家居1軒、東は山に倚り西は田圃なり。

一本木(いつほんき)

入宇田より巳(南南東)の方3町40間にあり。
家数6軒、東西町44間・南北10間。
東北は山に傍い西南は田圃なり

弥陀内(みたうち)

本村より未(南南西)の方6町余にあり。
家数3軒、東西15間・南北30間。
西は山に倚り東は田圃なり。

栗生(くりふ)

弥陀内の南4町20間余にあり。
南北2区に住し、その間40間余を隔つ。
北の1区を小栗生と称す。家数4軒、東西12間・南北36間。西南は山を負い東北は田圃なり。
南の1区を大栗生と称す。家数3軒、東西30間・南北50間。西北は山に傍い東南は田圃なり。

禰宜内(ねきうち)

栗生の南5町にあり。
家数5軒、東西30間・南北1町20間。
西は山に傍い東は田圃なり。

大将地(たいしやうち)

禰宜内の南5町にあり。
家数2軒、東西32間・南北14間。
西は山に傍い東は田圃なり。

打越(うちこし)

本村の東14間にあり。
家数5軒、東西20間・南北1町。
東は山に倚り西は田圃なり。

余江新田(よこうしんでん)

打越の北続きにあり。
家数17軒、東西1町30間・南北1町23間。
北は山を負い南は田圃なり。

(はた)

余江新田より亥(北北西)の方12町にあり。
家数4軒、東西1町20間・南北20間。
東北は山に倚り西南は田圃なり。

(さかひ)

畠より戌(西北西)の方2町余にあり。
東西2区に住す。
東の1区、家数3軒、東西40間・南北30間。
ここより45間西に1区あり。家数4軒、東西45間・南北33間。
共に東南は山に倚り西北は田畝なり。

峯崎(みねさき)

境より戌(西北西)の方40間余にあり。
家数3軒、東西50間・南北18間。
東は山を負い西は田畝なり。

(はま)

本村の北28町40間にあり。
南北2区に住し、その間1町を隔つ。
南の1区、家数14軒、東西1町10間・南北55間。
北野1区、家数7軒、東西1町20間・南北30間。
共に四方田圃にて北は湖浜に近し。

穴尾(あなお)

本村より戌亥(北西)の方8町40間にあり。
家数2軒、東西40間・南北30間。
西北は山に傍い東南は田圃なり。
昔、͡湖浜より大蛇出て多く人を害せしが、空海が加持に因て(のが)れて山に入る。その尾の在りし所とて穴尾と名けしという。

片岸(かたきし)

穴尾より寅(東北東)の方4町20間にあり。
家数2軒、東西20間・南北45間。
西は山に倚り東は菅川に傍ふ。

山川

黒塚山(くろつかやま)

村より辰巳(南東)の方1里18町余にあり。
西南の方、小籠森(ここ?がもり)*1という山に連なる。
共に安積・岩瀬2郡に跨り峯を限りとす。

餅箱山(もちはこやま)

村南1里18町余にあり。
ここも安積・岩瀬2郡に跨り、峯を限りとし南は白川領に属す。
竹檜多し。

岫峠(くきとうげ)

村南2里10町10間布引山の東尾先にあり。
安積・会津2郡の界にて、白川領に赴く径路あり。
絶頂より北は本村に属し、南は本村及び赤津・馬入・浜坪4ヶ村入逢の地なり。

山王坂(さんわうさか)

村より辰(東南東)の方17町20間にあり。
昔、頂に山王権現の社あり。因て()く唱ふ。
頂まで1町余、白川街道なり。

菅川(すけかわ)

源は布引・餅箱・黒塚の諸峯より発し、隠津島の社前に至て御手洗川となり、3里余北に流れ村西を過ぎて湖水に入る。
広3間。
岩魚(いはな)(やまへ)を産す。

中川(なかかわ)

菅川の支流なり。
馬入新田村の堰水と端村山崎の渓流これに会し田地の養水となり、村中を過ぎ北に流るること30町余、端村浜の東北にて1町計の間水(たた)えて広25間余に至り湖水に入る。因て下流を沼川と唱ふ。

関梁

橋6

一は村中、中川に架す。長6間・幅2間、勾欄あり。
一は村西1町40間、菅川に架す。長6間・幅2間。
共に白川街道なり。
一は村北28町にあり。長6間。
一は村より亥(北北西)の方13町40間にあり。長5間。
共に丸木橋なり。
一は村より未(南南西)の方6町余にあり。長5間。
一は村南1里14町にあり。長5間。
共に土橋なり。共に村中の通路菅川に架す。

水利

堤6

一は村より巳(南南東)の方20町にあり。東西30間・南北50間。
一は村より辰巳(南東)の方15町にあり。東西100間・南北60間。
一は村東9町にあり。東西15間・南北30間。
一は村東14町にあり。東西50間・南北30間。
一は村より丑寅(北東)の方16町50間にあり。東西30間・南北20間。
一は村より丑(北北東)の方14町20間にあり。東西30間・南北15間。

郡署

代官所

村中にあり。
役人を置き本組及び会津郡原組を支配せしむ。
耶麻郡川西組戸口村郡役所に隷す。

神社

隠津島神社

村南1里22町、布引山の東麓にあり。
隠津島神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
鎮座 不明
禰宜内の南、山腰にあり。
鳥居拝殿あり。桑名豊前これを司る。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
端村余江新田より辰巳(南東)の方、山腰にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。桑名豊前これを司る。

磐椅神社

祭神 磐椅神?
鎮座 不明
村中にあり。
寛文中(1661年~1673年)移しては村入宇田の山神社の相殿とせしが、寛永8年(1631年)また旧地に復す。
石鳥居幣殿拝殿あり。

神職 渡部出羽

その先は数馬教忠とて羽州最上の者なりしが、萬治・寛文の頃(1658年~11673年)この地に来り当社の神職となる。
今の出羽忠次は5世の孫なりとぞ。

山神社

祭神 山神?
相殿 稲荷神
   諏訪神
   羽黒神
   婆神
   妙見神
鎮座 不明
入宇田の西40間計にあり。
鳥居拝殿あり。渡辺出羽が司なり。

麓山神社

祭神 麓山神?
鎮座
村より戌亥(北西)の方10町余、山上にあり。
毎年3月、村民社頭に群集し1人を(えら)びて祭主とし、篝火を焚き衆口同音に神號を唱えて年の豊凶を卜するに、神その人に託し豊凶を告く。必ず験ありとぞ。
鳥居あり。渡辺出羽これを司る。

鬼渡神社

祭神 鬼渡神?
鎮座 不明
村北1町50間、鶴山館跡にあり。
鳥居拝殿あり。

神職 長谷川日向

その先を造酒丞某という。延寶中(1673年~1681年)始て神職となり、4世にして今の日向家長に至る。

寺院

感應寺

村中にあり。
浄土宗正覺山と號す。
慶長18年(1613年)野州大沢圓通寺より良讃という僧来りしを、蒲生氏の臣布施某菩提の為1宇を営み、恵心作の弥陀を安じ良讃を請て住せしむ。因て今に圓通寺の末寺たり。
本尊弥陀客殿に安ず。

長泉寺

感應寺の北にあり。
曹洞宗、開山を萬截と称す。
文亀元年(1501年)仙道石川郡大寺村大安寺より来て当寺を草創し、寺の後山に伊藤氏の築ける館ありて山腰に清泉あれば新城山長泉寺と名けしとぞ。今に大安寺に隷す。
客殿に釈迦の像を安じ本尊とす。

観音堂

村西30間、山麓にあり。
3間四面、東向き。千手観音を安ず。
寛元4年(1247年)満月という僧の著わせる縁起(その文下に出す)に、空海が手づから刻める(よし)見ゆ。秘佛にて昔より見る者なり。
毎年6月16日、同17日恒例の会式あり。
蒲生氏の時許多(あまた)の田地を寄す。何頃より失しにか詳ならず。
寄付状の写し3通あり。左に載す。
福浦之千手観音堂地御年貢銭千手院院唀分六百文者 為御寄進 観音え被付候間 佛前燈明以下無懈怠被参秀行様御祈念可為肝要候 恐れ〻謹言
 慶長七
 十二月廿一日    町野左近助繁仍(花押)
           岡 半兵衛重政(花押)
   福浦 千手院御坊中

  以上
福浦之千手観音堂御年貢銭六百五拾文之儀 則被成御寄進候 就其千手院へ両人ゟ折紙令遺候條 可有其御心得候 恐〻謹言
 慶長七
 十二月廿一日    町左近助繁仍 判
           岡半兵衛重政 判
   吉村宗兵衛殿 御宿所

  以上
先年 秀行様御時観音へ為燈明 永楽六百五拾文之所 其方於手前被成御寄進候 然者去年福浦村小打被仰付候處 右六百五拾文之内ゟ出目分貳百拾八文在之ニ付而御理被申上候 則本出分合八百六拾八文之分 無御別儀被成御寄進候之條 彌燈明無懈怠 下野様(蒲生忠郷)御息災之御祈念可被仕義肝要者也
 元和元年
 十二月五日     町野左近助繁仍(花押)
           稲田数馬助貞忠(花押)
   福浦千手院

寶物

縁起      1通。満月筆。その文如左。
敬白
奥刕浅香郡菱縣庄無窮山之千手千眼観音靈像御縁起事
抑當山者人王五十二代嵯峨天皇御宇弘仁三年空海處〻靈地修行給 湖水邊一峯負山顯現セリ 彼山姿病謂文字似間 此土之人民口大寒苦逼悩センコト愍給 五佛薬師安置給 其願事黒雲中見給フニ 陰雲靉靆シテ中金色光樹遍満 高聲告呼諍訟経官處 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散矣 大師頻念給 次第天降一成靈樹 寄特發意 刻千手像給 今福良観音是也 貴哉法及世澆季 左聖薩埵舟空海彼現顯此利 無邊衆生一度拝尊像 永閉三有苦域 約當來蓮臺 豈亦疑乎 世〻モ望此靈蓆者 現當榮耀ノ果願尤以可成者也 仍醫王観音因縁如斯
此縁起人王八十七代後嵯峨院御宇 寛元四年三月廿一日満月上人弘法大師御自筆相残漸〻見調書成
湖邊ヨリ大蛇出 多人呑□何大師彼(オロチ)ヲ降伏し来り 蛇尾入山なれば穴尾と謂 此假に龍臥若たる故に伏龍寺と云 本記に見たり

伊藤薩摩守影象 1幅。筆者知らず。上に左の書付あり。
陸奥國安積郡福良郷観音堂中興之大檀那伊藤薩摩守盛恒傳曰 檀那者昔在于當郡中地而領隣村於五邑矣 時天正十八庚寅歳霜月十九日於于大崎郡名生城守忠於蒲生氏郷戦死矣 壽五十七

別当 千手院

本堂の北にあり。
無窮山と號す。紀州高野山の末寺真言宗なり。
開基の年代詳ならず。
満月が著わせる観音縁起に、空海大蛇を降伏し蛇の伏たる所に1宇を建立し伏龍寺と名くとあり。
本尊不動客殿に安ず。
鐘楼あり。鐘径2尺、正徳4年(1714年)30世辨英が時に鑄る。

薬師堂

端村穴尾の北、山麓にあり。
創立の時代詳ならず。
秘佛なり。
村民の持なり。

古蹟

鶴山館跡

村北26間、鶴山の上にあり。
東西26間・南北13間。
堀切の形残れり。何頃にか伊藤氏の築く所という。
東に対して峯仙山(ほうせんやま)という小山あり。
里民の説に、天正中(1573年~1593年)伊藤盛恒この所にて横澤彦三郎(諱を失う)と合戦し、人馬の死骸を埋めし所とて小さき壇7あり。
また長泉寺の東の山に伊藤氏の館跡あり。林木生茂(おいしげ)りてその形さだかならず。

石佛

村西3町余、白川街道の傍にあり。
何人の所為にか弥陀の像2を岩面に(なら)べ彫れり。

古碑7

一は端村弥陀内の西、山麓にあり。高2尺計の野面石なり。文字あれども処々磨滅(まめつ)して分明ならず。『願以□功□普及於一切我等為』とのみ見えてその余は分ち難く、また右の脇に『過去廿二年』左の脇に『過去二』とありてその余は磨滅し、中央に『元弘二年』(元弘2年:1332年)とあり。またその上に梵字・蓮花座を彫れり。
一は村西3町余にあり。高3尺計の野面石に縁を廻し梵字・蓮華座を彫り、下に『元享二』(元享2年:1322年)の3字あり。
余の4は共に村北4町余にあり。石のさま前に同じ。
その中の一は四方に縁を廻し、左右に『右志者為悲母成佛得道又□□故也』『右志者為慈父□□□□又故也』と刻み、中央に『元享二』とあり。またその上に2輪を雙べ彫り、輪中に梵字・蓮華座を刻み、その下に花瓶の形3を彫付たり。
余の3、共に佛像或は梵字・蓮華座など見ゆ。文字は剥落して見えず。
また端村禰宜内の南に高8尺余・横1丈計の大石に、縁を廻し中に梵字を刻めるあり





夷口七峠

会津から東の地や白河へと抜ける峠道の総称。東口七峠、東七ツ口とも。(参考:峠データベース
  • 馬入峠(ばにゅうとうげ)(岫峠)
  • 勢至堂峠(せいしどうとうげ)(山王坂)
  • 鶏峠(にわとりとうげ)
  • 諏訪峠(すわとうげ)
  • 三森峠(さんもりとうげ)
  • 萋卉峠(さいきとうげ)
  • 御霊櫃峠(ごれいびつとうげ)

岫峠には戊辰戦争時に白虎隊士の安達藤三郎が早馬で通り過ぎる土方歳三と会話を交わしたとの伝承があります。


鶴山塁

安積郡福良村の鶴山塁は大同年中(806年~810年)土子美作守が築いたとの情報がありますが、会津風土記の記述(伊藤氏が築く)と一致しません。鶴山館と鶴山塁は別と考えた方がよいのでしょうか?
参考:会津の城郭年代記(会津古塁記)
最終更新:2025年06月29日 19:49
添付ファイル

*1 原文のフリガナが潰れて読めない。こごめがもり?