縁起に、昔神主皆川氏の遠祖権頭正次という者八幡宮を下総国小泉という所に勧請し、延暦12年(793年)神輿を奉じてこの地に来り当社を草創すという。
(縁起に鶴岡八幡宮より勧請せし由を載す。
舊事雑考に鶴岡は後冷泉院・康平中(1058年~1065年)の勧請にて延暦と年序隔れり。かつ当社の神器に天暦7年(953年)の銘ある物あり。天暦もまた康平の前にあり。然らば鶴岡より勧請せしという者は誤なりといえり)
この社旧は宮殿の構も巨宏にして8月15日、祭禮の時は小川荘の神官巫覡の類みな来て祭祀を助け、神楽・流鏑馬の式あり。
天正の頃(1573年~1593年)金上盛備、西村雲前寺・奥田・奥平等の地を寄付せしが、文禄中(1593年~1596年)豊臣家・中村式部少輔をしてこの地を検校せしとき没収せらる。されど仲秋祭祀の料は郷里に課す。
蒲生氏の時に至てこの事廃し、宮社漸々に破壊せり。
寛文中(1661年~1673年)肥後守正之修補を加え、唯一神道の式を以て祭祀を行わしむ。
寶永2年(1705年)肥後守正容、神領13石4斗の地を寄付し、相継いで今に至る。
末社3座あり。
石鳥居
両柱の間1丈2尺。
本社
3間四面、東向き。
石の神像1軀あり。長8寸余。灰色の石像、極めて古物なり。自然のものにて人巧に出す。髣髴として童形のごとく見ゆ。
幣殿
3間半に2間。
拝殿
7間に2間半。
神供所
3間に2間。
末社 麻利支天社
本社の南にあり。
5尺4寸余に4尺5寸、東向き。
末社 山神社
麻利支天社の南にあり。
3尺5寸に2尺8寸、東向き。
末社 伊勢宮
拝殿の北にあり。
3尺5寸に2尺8寸、南向き。
寶物
御正體円鏡
1面。その銘如左。
天暦七年□丑
奉掛諸願成就
八月十伍□願主忠茂
旧字雑考に『云忠茂何人にか詳ならず。疑らくは維茂が宗族ならんと』
同
1面。その銘如左。
八幡宮
奉掛
寛仁四年
申八月十五日
同
1面。その銘如左。
寛仁四歳庚申
奉掛
八月拾伍日 敬白
同
1面。その銘如左。
建暦元未ノ
奉掛
八月拾伍日
同
1面。その銘如左。
奉納
永仁六年戊ノ八月十五日
同
1面。その銘如左。
木本□□
于時永和三丁巳
八釼大明神御本躰
七月十二日 戊子 敬白
同
1面。その銘如左。
元和三年
諸願所
丑ノ八月十五日敬白
元和3年は丁巳なり。丑の字疑うべし。
この外年月干支を記さざるもの数面あり。
鰐口
1口。その銘如左。
慶長十三年八月十一日
古縁起
1通。その文如左。
越後國
蒲原郡小河縣
八幡宮者奉齋太神輕嶋豐明宮御宇
譽田天皇尊靈人皇十六代也 天皇
足仲彦天皇第四子也母曰 氣長足姫
(※略)
皆川神主 藤原正秀
敬白
源義経願書
1通。その文如左。
(注:紙の上下が切れており、文章が繋がっているかどうか判断できず)
敬白
八幡大菩薩 御寶前
御鎧 卯花威同毛甲 一領
(※略)
元暦二年六月七日 源義経(花押)
※元暦2年:1185年
東鑑に拠るに、義経讒言にかかり陸奥に下りしは文治3年(1187年)の事なり。この時義経みづから当社に詣しとは見えず。
神職 皆川下総
その先を権頭藤原正次という。正次は房前公の後胤にして、権太夫正憲というものの子なり。
その祖正義という者越後国に謫せられ、その後下総国に移る。
正次、延暦12年(793年)この村に来て神職となる。
正次が子を正俊といい、その子を権守正秀という。
今の下総政徳は正秀が33世の孫なりとぞ。
最終更新:2020年11月02日 21:41