西村八幡宮

越後国 蒲原郡 下條組 西村 八幡宮
大日本地誌大系第34巻 60コマ目

縁起に、昔神主皆川氏の遠祖権頭正次という者八幡宮を下総国小泉*1という所に勧請し、延暦12年(793年)神輿を奉じてこの地に来り当社を草創すという。
(縁起に鶴岡八幡宮より勧請せし由を載す。舊事雑考に鶴岡は後冷泉院・康平中(1058年~1065年)の勧請にて延暦と年序隔れり。かつ当社の神器に天暦7年(953年)の銘ある物あり。天暦もまた康平の前にあり。然らば鶴岡より勧請せしという者は誤なりといえり)

この社旧は宮殿の構も巨宏にして8月15日、祭禮の時は小川荘の神官巫覡(ふげき)の類みな来て祭祀を助け、神楽・流鏑馬の式あり。
天正の頃(1573年~1593年)金上盛備、西村雲前寺・奥田・奥平等の地を寄付せしが、文禄中(1593年~1596年)豊臣家・中村式部少輔をしてこの地を検校(けんぎょう)せしとき没収せらる。されど仲秋祭祀の料は郷里に課す。
蒲生氏の時に至てこの事廃し、宮社漸々に破壊せり。
寛文中(1661年~1673年)肥後守正之修補を加え、唯一神道の式を以て祭祀を行わしむ。
寶永2年(1705年)肥後守正容、神領13石4斗の地を寄付し、相継いで今に至る。
末社3座あり。

石鳥居

両柱の間1丈2尺。

本社

3間四面、東向き。
石の神像1軀あり。長8寸余。灰色の石像、極めて古物なり。自然のものにて人巧に出す。髣髴(ほうふつ)として童形のごとく見ゆ。

幣殿

3間半に2間。

拝殿

7間に2間半。

神供所

3間に2間。

末社 麻利支天社

祭神 麻利支天?
本社の南にあり。
5尺4寸余に4尺5寸、東向き。

末社 山神社

祭神 山神?
相殿 白山神
麻利支天社の南にあり。
3尺5寸に2尺8寸、東向き。

末社 伊勢宮

祭神 伊勢宮
相殿 稲荷神
拝殿の北にあり。
3尺5寸に2尺8寸、南向き。

寶物

御正體円鏡

1面。その銘如左。
 天暦七年□丑
奉掛諸願成就
 八月十伍□願主忠茂
旧字雑考に『云忠茂何人にか詳ならず。疑らくは維茂が宗族ならんと』

1面。その銘如左。
 八幡宮
 奉掛
寛仁四年
 申八月十五日

1面。その銘如左。
 寛仁四歳庚申
  奉掛
 八月拾伍日 敬白

1面。その銘如左。
 建暦元未ノ
  奉掛
 八月拾伍日

1面。その銘如左。
  奉納
 永仁六年戊ノ八月十五日


1面。その銘如左。
  木本□□
 于時永和三丁巳
八釼大明神御本躰
 七月十二日 戊子 敬白

1面。その銘如左。
 元和三年
諸願所
 丑ノ八月十五日敬白
元和3年は丁巳なり。丑の字疑うべし。

この外年月干支を記さざるもの数面あり。

鰐口

1口。その銘如左。
慶長十三年八月十一日

古縁起

1通。その文如左。
 越後國蒲原郡小河縣
八幡宮者奉齋太神輕嶋豐明宮御宇
譽田天皇尊靈人皇十六代也 天皇
足仲彦天皇第四子也母曰 氣長足姫
(※略)
    皆川神主 藤原正秀
             敬白

源義経願書

1通。その文如左。
(注:紙の上下が切れており、文章が繋がっているかどうか判断できず)
  敬白
八幡大菩薩   御寶前
  御鎧 卯花威同毛甲  一領
(※略)
元暦二年六月七日 源義経(花押)
※元暦2年:1185年
東鑑に拠るに、義経讒言(ざんげん)にかかり陸奥に下りしは文治3年(1187年)の事なり。この時義経みづから当社に(けい)しとは見えず。

神職 皆川下総

その先を権頭藤原正次という。正次は房前公*2の後胤にして、権太夫正憲というものの子なり。
その祖正義という者越後国に(たく)せられ、その後下総国に移る。
正次、延暦12年(793年)この村に来て神職となる。
正次が子を正俊といい、その子を権守正秀という。
今の下総政徳は正秀が33世の孫なりとぞ。


最終更新:2020年11月02日 21:41

*1 下総国小泉:現在の千葉県成田市小泉

*2 藤原房前(ふささき)(天武天皇10年(681年)~天平9年(737年)4月17日)の事か?