牛海(野沢)

※にしあいづ物語100選「その68 2回水没した野沢盆地」[PDF]より

野沢盆地は過去2回水没しているそうです。
有史以前の事はよくわかっていませんが、5000年前の沼沢火山の爆発により流れ込んだ土石流が阿賀川の銚子の口付近で詰まり徐々に水位があがっていった1回目で、平安末期~鎌倉初期頃に地すべりにより銚子の口付近が堰き止められて水没したのが2回目です。

西会津町史にも記載があるので記事を引用します
ここ野沢平の往昔を語る古書は一様に、ある一時期は湖になったと伝えているのである。つまり、享和三年(1803)泥浮山村肝煎が藩庁に提出した『帳地志方』は「往古(当村が)越後街道に御座候その節は、野沢平をば牛海と号し水海(みずうみ)のよし。その水海の(ほとり)尾登(おど)喉尻(のどじり)(野尻)・両又(四岐)・牛尾(うしお)・舟つなぎ沢(縄沢(つなざわ))と申す船附(ふなつき)所あり、右両又の北辺り如法寺と申す所より舟にて牛尾へ乗り附け」と述べて、ここから泥浮山ー柳津を経て今の御城下に行ったと記し、また『新編会津』には「この地、往古揚川(阿賀川)の水道(ふさ)がり、その水数里の外に」洋溢して(つい)に一大湖となり、平衍(へいえん)(平な土地)の村落民業を失い、漸々(ようよう)に山陵に登り、各自の家居をなせしが」と記しているのである。
これは要するに、銚子ノ口の北岸の地滑り地帯が抜けて阿賀川が()き止められて湛水(たんすい)し、そのため野沢平の人々は家業を失って雷山(かみなりやま)前山(まえやま)の山越に住居を移したというのである。ではその次代はいつの頃かということになるのであるが、冒頭の『会津鑑』を信用するとすれば、慈円の時代の平安末期から鎌倉初期の頃には、「原町邑」はすでに真菰の花が一面に咲いている湖沼の里か、あるいはその名残をとどめている水郷であったという推測もできるのである。しかし、このような盆地にはこうした湖水伝説が多いので、地質学も含めて検討しなければならない問題であろう。


参考

外部リンク等


牛海について記載のある資料


平安~鎌倉期の地震について

嘉応元年十二月十九日(1170/1/14) 会津
嘉応元年十二月二十五日(1170/1/20) 会津
[福島県災害誌]
 嘉応元年十二月二十五日 会津地方に強い地震があった。
 (注、十九日の地震と同じか)
最終更新:2025年10月01日 18:32
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