河沼郡野沢組下野尻村

陸奥国 大沼郡 野沢組 下野尻(しものしり)
大日本地誌大系第34巻 11コマ目

府城の西北に当り行程9里13町。
家数67軒、東西3町52間・南北1町20間。
東は田圃(たんぼ)にて三方山廻れり。

越後街道駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
上野尻村駅より8町13間この駅に継ぎ、ここより28町42間本郡海道組白坂村駅に継ぐ。

村西に一里塚あり。

東1町47間・南9町、共に上野尻村の界に至る。その村ま辰(東南東)に当り5町20間余。
西9町白坂村に界ひ車峠を限りとす。その村は戌(西北西)に当り27町30間余。
北18町耶麻郡吉田組滝坂村に界ひ揚川を限りとす。
また
亥(北北西)の方28町9間徳沢村の界に至る。その村まで1里17町50間余。

端村

大下野尻(おほしものしり)

本村より子丑(北~北北東の間)の方15町にあり。
家数13軒、東西40間・南北1町。
東は揚川に傍ひ三方田圃にて山に近し。

山川

車峠(くるまとうげ)

村西1町にあり。
登ること11町、白坂村と峯を界ふ。
越後街道にて曲折数回の坂道なり。
故道(こどう)は今の所より北の方にありしが、寛永中(1624年~1645年)加藤家府城修補の時安座村の肝煎二瓶七左衛門この道を開く。故道を古車坂(ふるくるまさか)と唱ふ。
寛政元年(1789年)この村より頂に茶屋2軒を構えて往来の旅人を資く。

揚川

端村大下野尻の東1町にあり。
上野尻村の境内より来り、戌亥(北西)の方に流るること29町徳沢村の界に入る。
里人この川にとり滝を構えて漁猟(ぎょりょう)す(徳沢村の条下を併せ見るべし)。
この下流に銚子口(てうしのくち)という所あり。両岸より怪岩相つかね*1急流奔突(ほんとつ)す。昔牛海の潰し所という(組の条下を併せ見るべし)。

水利

堤4

一は端村大下野尻の西6町にあり。周1町25間、惣蔵沢堤(そうさうさはつつみ)という。寶永3年(1706年)に築く。
一は村より戌(西北西)の方5町余にあり。周1町12間、琵琶沢堤(ひはのさはつつみ)という。享保20年(1735年)に築く。
一は村より未(南南西)の方1町20間にあり。周1町、九日田堤(くにちたつつみ)という。享保中(1716年~1736年)築く。
一は村より申(西南西)の方1町にあり。周1町28間、坂下堤(さかしたつつみ)という。

神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 伊勢宮
   熊野宮
   鬼渡神
   婆神
   宇知神
勧請 應永6年(1399年)6月5日
村より未(南南西)の方4町にあり。
鳥居あり。

神職 平野攝津

延寶の頃(1673年~1681年)壹岐吉重という者この社の神職となる。5世を経て今の摂津吉定に至るという。

御稷神社

祭神 御稷神?
相殿 大明神
勧請 不明
端村大下野尻の西1町20間にあり。
鳥居あり。平野摂津が司なり。

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
村より未(南南西)の方4町余にあり。
鳥居あり。修験定源院これを司る。

大天神社

祭神 不明
勧請 不明
村より戌(西北西)の方1町30間にあり。
祭神及び勸請の初を詳にせず。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

寺院

南光院

村より亥子(北北西~北の間)の方2町にあり。
西福山と號す。開基詳ならず。
もと太子守宗にて太子堂あり。その棟札に天文19年(1550年)の年号ありしという。
慶長中(1596年~1615年)博労町自在院の末弟慶住という僧再興し、南光院と改め真言宗となり自在院の末寺となれり。
本尊弥陀客殿に安ず。

慈眼寺

村より戌(西北西)の方1町30間余にあり。
臨済宗福聚山と號す。開基の年代詳ならず。
慶安の頃(1648年~1652年)府下黒川南町分成願寺5世鐵額という僧来て再興し成願寺の末寺となる。
もと大永8年(1528年)の経筒ありしが、寛政5年(1793年)火災にかかり焼失すという。
本尊観音客殿に安ず。

旧家

満田和助

この村の肝煎なり。
先祖は山口大和忠春とて葦名家に仕ふ。長禄2年(1458年)盛詮伊達家を攻めし時金上兵庫に属し先登の功ありしかば、盛詮賞して満田(今の天屋村)・杉山両村を与ふ。これより満田村に住し氏を満田と改むという。
忠春が4世の孫を主計盛胤という。天正6年(1578年)大槻太郎左衛門政道反逆を企て只見川以西の地頭多くは一味せしが、盛胤(かか)る敵中にあってその催促に応ぜざりしかば、事平て後盛氏感状を与ふ。
同17年(1589年)葦名伊達の両家磨上原合戦の時、盛胤敵将原田左馬助が陣に向い力戦して疵を被りしが、義廣奔敗の後浪人して民間に潜むという。盛胤が4世次右衛門盛忠という者の時この村に移り相継いで5世今に至る。
盛氏感状の写し及び蒲生忠郷の書を蔵む。左に載す。
此度大槻等謀叛不黨 當表へ被参會候段 忠義之志神妙之至候 仍而状如件
 天正六戊寅二月十七日 盛氏
      満田主計とのへ

爲鷹野見廻 □五到來候 志之段令満足候 尚岡山杢允可申候也
 十月十八日  (蒲生忠郷)判
     満田茂右衛門とのへ

成田養壽

端村大下野尻に住する医師なり。先祖は成田左京亮常定とて小島村を領せしとぞ(小島村の条下を併せ見るべし)。
常定が子右京進某という者初て(ここ)に来り、相継いで10世今に至る。
家に古文書を蔵む。左に出す(※略)。



車峠

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

旧越後街道です。
下野尻村方面からは根柝神社の前を過ぎ西へ向かい登り始めます。地図上にある曲がりくねった道を抜けた先にある黒い四角は茶屋があった場所でしょう。無論現存していないとは思いますが、昭和初期に建物が残っていたとすればその形跡くらいはあるかもしれません。問題は峠を下った先の白坂側なのですが、現在国道49号線に車トンネルが通っているため旧道がどこに繋がっているのか分かりにくい事でしょうか。
なお地図の右下の方に神社のマークがあるのですが、ここが下野尻村の諏訪神社があった場所かと思われます。


追記。
コメントで情報を頂きました。
車峠の茶屋跡は昭和40年代(車トンネル開通時?)まで人が住んでいたそうです。建屋は昭和55年に雪の為潰れてしまったそうです。
最終更新:2020年05月28日 08:03
添付ファイル

*1 束ねるの意