会津八館

(会津坂下町史「越後城氏と会津支配」より)
城重則 会津八館配置図

城氏の系譜

会津の地は長い間、寺領十八万石を領した恵日寺の支配下にあった。その後佐原義連が領主となる間、坂下地方は明らかに城氏の支配下にあって、城氏に関する伝説は数多く残っている。
この城氏は桓武天皇の後胤平氏の一族で次の様に記されている。

桓武天皇
┗葛原親王
 ┗高見王
  ┗平高望
   ┗国香
    ┣貞盛
    ┣繁盛┳兼忠
    ┗兼任┣維茂(これもち)━     (余五将軍)
       ┗維[車+秀]
┳繁成             (出羽介)
┃┗城貞成           (城太郎)
┃ ┗重家
┃  ┗永基          (二郎)
┃   ┣助国         (九郎)
┃   ┃┣助永        (資職・資長とも)
┃   ┃┣長茂(ながもち)        (助職・長義・永用・資茂とも。長茂に改名)
┃   ┃┗板額
┃   ┗竹姫         (乗丹坊の妻)
┗重則             (会津八館を築く。四郎重範とも) 

(管理者注:尊卑分脈には維茂の子に重則(重範)の名はないし、四男は飛騨守の繁職と記されている)

国香の孫に平維茂(これもち)という人物がいる。余五将軍と称して越後・出羽の国を治め、鎮守府将軍として非常に勢力を有していた。維茂の子に繁茂があり、その子貞成が城太郎と称して城氏を名乗っている。余五将軍維茂の子に重則(四郎重範)があって、これが会津侵出を企図した。

重則と会津八館

越後国鳥坂山(北蒲原郡中条町)または赤谷(新発田市)に本拠をおいた城氏は勢力が次第に隆盛となって、永延二年(988)には会津に侵出して八館を築いた。重則は藤の槻盛山に猿戻城を築き、これを主城として自ら居住して、他にはそれぞれ家臣の武将を配置して支配を堅めた。
このことについては、当時、恵日寺と恵隆寺の間に、わだかまりが生じて相反目し、恵隆寺は城氏を迎え入れたものと考えられる。従って、高寺山と取り囲んで八館が築城された。

会津八館とその領域

城氏がどのようにして坂下地内に侵出したかは明らかでない。会津支配の拠点をここにおいたことは、かつての慧日寺と恵隆寺の門徒支配から武家勢力の侵出となったとも言い得る。
会津八館の中、主城の猿戻城、南宇内の陣ヶ峯城、舟渡の雲雀城の遺構は明瞭に残されている。『新編会津風土記』の南宇内の項に「館跡、東西一町三十間、南北一町十間、城四郎長茂の築きし二十八館の一つなり」とある。長茂は後世の人物で、この館を利用したことを説明している。陣ヶ峯城は南西北の三方にめぐらした二重の空堀が現存している。この遺構から推して、会津平坦部の最前線にある田中館・陣ヶ峯城・花館の中央の主要陣地の要衝である。しかもここには旧越後街道の勝負沢峠の出口になっている。雲雀城は空堀の一部と館跡の一部を残して只見川に決壊している。猿戻城は台地の城跡が明瞭である。他はおよその位置はわかるが外島館(大沢)だけはまったく不明である。この八館については後世の二十八館と混同したり、異説もあって詳らかでない所もあるが次のようになっている。
番号 名前 場所 城主 備考
1 外島館 大沢村
2 花館 長井村 家臣 星二郎
3 雲雀城 舟渡村 家臣 加佐間七郎
4 久山城 窪村 家臣 長谷川五郎
5 田中館 新館村 家臣 猪俣小六
6 陣ヶ峯城 南宇内村 家臣 中野太郎
7 福富城 大原村 家臣 安倍次郎
8 猿戻城 藤村 重則居城
八館は宇内・新館・長井・窪・舟渡・大沢等の各地に居を構え、恐らく居館と中心に農民支配を行ったであろう。藤の猿戻城は只見川上流をおさえる要所であったと考えられる。
地名については現在の大沢を外島村と称し、新館を藤井村と称したという記録もある。これは館主の姓を村名に付したものか、当て字もあって判断に苦しむところが多い。また、花館は阿賀の一竿の説もあるが、立地条件や花城山極楽寺の名称など残されている長井の方が確証は高い。重則が会津に侵入すると、間もなく、恵日寺の反撃が開始されるので、半ば完成かあるいは形だけで終わったところもある。外島館などはその例かも知れない。

参照


外部リンク等

最終更新:2025年10月19日 22:55
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