河沼郡野沢組片門村

陸奥国 大沼郡 野沢組 片門(かたかと)
大日本地誌大系第33巻 165コマ目

府城の西北に当り行程4里18町。
家数53軒、東西2町50間・南北1町。
東は只見川に臨み三方に田圃(たんぼ)あり。
寛政5年(1793年)府下北小路町検断赤城惣右衛門という者、村の未申(南西)の方17町重聞治原を新墾し赤城新田(あかきしんでん)と名く家数2軒あり。

この村は越後街道駅所にて坂下組船渡村と相駅なり。牛沢組塔寺村駅より29町45間この駅に継ぎ、ここより3里5町17年野沢駅に継ぐ。

東2町船渡村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り2町。
西9町12間天屋本名両村の界に至る。両村まで11町3間余。
南15町藤村の界に至る。その村は未申(南西)に当り25町50間余。
北5町10間洲走村の界に至る。その村は亥子(北北西~北の間)に当り9町10間。
また
戌(西北西)の方9町28軒杉山村の界に至る。その村まで13町10間余。

端村

軽沢(かるいさは)

寛文中(1661年~1673年)までは格村なり。後この村に属す。
本村の西天屋・本名両村の境内を隔て1里8町10間にあり。
家数13軒、東西1町10間・南北34間。
越後街道を挟み山間に住し、東西19町37間・南北33町24間の地面この村に属す。
東は天屋本名両村に界ひ、西は縄沢村に隣り、南は藤村に接し、北は漆窪村に交わる。

山川

束松峠

端村軽沢の東にあり。
登ること8町50間。
頂に天屋本名両村と峯を界ふ(天屋村の条下を併せ見るべし)。

鳥屋峠(とやとうげ)

軽沢より亥(北北西)の方4町にあり。
頂まで5町余。
松尾漆窪両村と峯を界ふ。
雑木多し。
昔池原村よりこの峠をへて天屋村へ通りし道形あり。

只見川

村東にあり。
藤村の境内より来り、東に流れ北に折れ25町流れて洲走村の界に入る。
広2町。
もとこの川の西岸に岡阜(こうふ)ありて松樹多くありしに、慶安2年(1649年)3月煙霧(えんむ)掻曇(かきくも)り大地鳴渡て岡阜陥り、1町余に3町の地(あな)となる。今もその跡なりとて1町に2町計の洿()*1なる所残れり。その時また川中に石瀬出るという。またこの川原の石膚(いしはだ)密に形極めて美はしく盆石に佳し。

切石川(きりいしかわ)

源は束松峠より出、西に流れて軽沢に至り、また西に流れ藤村の界より藤沢という渓水来り注でより藤沢川となり、西に流れ縄沢村の界に入りまた切石川となる。境内を流るること17町30間余。広2間。
束松峠の難所下切石(したきりいし)という所を経る故名くという。

清水

村より未(南南西)の方5町にあり。
大瀬戸清水(おほせとしみず)という。
5間に1間半。
この水を引き田地の養水とす。

原野

重門治原(ちうもんちはら)

村より未申(南西)の方17町にあり。
東西4町30間・南北16町。
もと上原(うえのはら)と呼び中頃十文字原といいしが、寛政5年(1793年)今の字に改むという。
土人の伝える所は、永禄の頃(1558年~1570年)藤村の住城四郎重範と夏井村の住齋藤佐渡宗影とこの所にて戦い、重範敗れて腹を切し所ゆえ十文字原と名くという(城四郎は諱を長茂という。寿永養和(1182年頃)の人なり。未だ重範と称するものを聞かず。土人の伝える所なれば姑く記す)。

関梁

船渡場

村東にあり。
只見川を渡す。越後街道なり。
この渡場は往古よりありしと見え、北条時頼(1227年6月29日-1263年12月24日)この所を過ぎし時渡守に与えし文書ありしという。今も毎歳元旦に渡守白衣を着て渡しわしむという。その後葦名修理大夫盛高より与えし文書なりとて今に渡守次郎兵衛が家に蔵む。その文如左。
 (花押)
かたかとのわたし守の事 別人望申上候といへとも 先代の時関東よりの御判今に所持仕候 道理分明なるによつて ふるき例にまかせ 判形を遺所也 自今以後は 親類なり共 余人望有へからず 於子孫書相違すへからさる者也 仍如件
 永正三年丙刁十月廿八日

水利

端村軽沢より戌(西北西)の方10町にあり。
周2町50間、谷地堤(やちつつみ)という。
正徳2年(1712年)に築く。

神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 稲荷神
   住吉神
勧請 不明
村西1町10間余にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。上野尻村平野左仲が司なり。

天王神社

祭神 天王神?
鎮座 不明
端村軽沢の南1町にあり。
鳥居拝殿あり。平野左仲これを司る。

寺院

長龍寺

村南20間にあり。
天正中(1573年~1593年)この村の住赤城平七という者1宇の草庵を結び、臨済の徒を請し地蔵を本尊とせり。山號を峯松山という。
後曹洞の徒源益という者来住す時に、文禄2年(1593年)6月只見川洪水して民屋(ことごと)く流れ院宇もまた漂没す。故に源益小庵を再興しぬ。源益示寂(じじゃく)の後また院宇頽轉(たいてん)せしを、嶺薫という僧再興し会津郡南青木組北青木村恵倫寺の末山となる。
本尊地蔵客殿に安ず。

薬師堂

村より辰巳(南東)の方20間余にあり。
4軒に3間、丑寅(北東)に向かう。
薬師座像木佛、長4尺9寸。
往昔高寺繁栄の時八薬師あり、東方を日光と称し西方を月光と称す。この薬師は大同中(806年~810年)月光を移すといい伝えれども何人の草創なることを詳にせず。(舊事雑考には天正元年(1573年)赤城平七が草創なりとあり)。もとは佛餉(ぶっしょう)料もありしという。文禄中(1593年~1596年)只見川の洪水に堂宇漂流す。土人像を負て山上に遁れ(つつが)なきことを得たり。後真言の徒堂舎を営みせしより今に至る。
村民の持なり。

古蹟

館跡2

一は村より未申(南西)の方にあり。
1町四方。天正中(1573年~1593年)赤城平七忠安住す。
忠安は夏井村の住赤城玄蕃某という者の弟なりしに。葦名家よりこの村を与えて金上遠江守盛備に属せしむという。
一は端村軽沢の北5町山の中腹にあり。
今はその地かけて形状分明ならず。
何の頃にか近藤美濃某という者住すという。



鳥屋峠

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

鳥屋峠という名の峠道は地図上にありません。ただ鳥屋山の峯を越える道があることと、風土記には軽沢の北北西にあり池原村から天屋村に抜ける道とあるので上記ルートで間違いないかと。現在の別舟渡線とは若干場所が異なるようです。
こちらも参照:松尾村の鳥屋峠

城四郎重範

城四郎重範(重則)は会津八館を築いた人として知られており、余五将軍平維茂の血を引く越後平氏の一族です。
ですが桓武平氏の家系図を見ても、途中城氏は出てきますが重範(重則)の名前が出てこないんですよね。風土記本文にも「重範なんて名前聞いたことないよ」って書いてあります(重門治原の記を参照)。
ちなみに尊卑文脈を見ると、長茂の父親の助國(永基の子・城九郎)までは載っています。維茂の4男・茂職は飛騨守で、会津に8つも館を築いたとは思えません。そもそも維茂の子孫が城氏を名乗ったのは貞成からです。
歴史の本には重範という名前はちらほら出てきますが、彼は一体何者なのでしょう?
※尊卑分脈「桓武平氏」(国立国会図書館)
  • 参考
  • その他、参考資料
    • 寛政重脩諸家譜. 第3輯(377コマ目) - 国立国会図書館
      • 維茂(これもち)
          ┗平繁成(しげなり)
            ┗城貞成(さだなり) - 太郎。城を称す。
              ┗城永基(ながもと) - 二郎
                ┗城助國(すけくに) - 九郎
                  ┣城助永(すけなが) - 太郎 越後守
                  ┃┗城資盛(すけもり) - 太郎
                  ┣城長茂(ながもち) - 初・助茂 四郎 越後守
                  ┗女子 - 板額御前
        ※資盛の記の後に以下の註あります。
        『寛永系譜にいわく、この間数代中絶す。今の呈譜に、資盛より貞茂(さだもち)が間、世系22代を連綿すといえども、家系疑うべきもの多し。故に旧記にしたがいてこれを補わず。』
    • 平氏の系図
    • 越後城氏 - 兵の家各流・平氏
    • 越後城氏 - 戦国大名研究
      • 助職(助茂、資職)→長茂(永茂、永用)の記載はあるが重範の名はなし
最終更新:2020年10月27日 21:19
添付ファイル

*1 窪地