材木町の東、町分の地にあり(即
材木町分の地なり)。
東西1町余・幅2町、家数8軒。
もとはここより東の方黒川の岸にありしを、慶長の頃材木町の末に移し、後にここに移せしという。
昔いたかの住し所故この名あるにや。
(いたかの業とする処詳ならず。職人歌合に僧形の如き者小き卒都婆形を鬻ぐ體を図にして穢多と番はせたれば、いたかの称も古き称とは見えたり)
今もこの町の者をはいたかと称し、他の商売に混ぜず恒に飴を煉て商う。
また年々夷鐘馗毘沙門等の画像を府下及び村里に配り穢多の福よしの如きことを唱ふ。
その詞鄙褻なれども伝るままに左に載す。
かほど目出度御大黒祝ひ申候では戸に立てはきちてうてんまほりの御経にうたひかひなし棟に押ては火ふせとなり舟の中にては龍浦島蔵の中ではうが大黒商の利をとり数の寶と御積あれ
また寛文中(1661年~1673年)の文書の写しあり。因に録す。
請取錢之事
合貳貫文は 上錢但京錢
右者ゑひす大夫上ヶ申銭也但湯淺兵助取上ル寛永四年分相濟也
寛永四年十月晦日 佃野小右衛門印判
ゑひす大大夫中參
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最終更新:2026年01月11日 01:06