大町の南より西に折れて末は大和町に至る。
東西2町32間・幅3間余、家数31軒。
旧家
川副勘左衛門
その先、近江源氏にて備中守時親という者、近江国神崎郡川副を領せしより子孫因て氏とす。
明應の頃(1492年~1501年)裔孫に新太郎連賴という者あり。室町家に仕えて伊賀守に任ぜらるという。
永禄8年(1565年)5月19日三好・松長が乱起て後、曾孫勘解由賴源、蒲生定秀の幕下に属し近江国箕浦の合戦に屢定秀危を援ひ、遂に浅井が兵を破りしという。
その子政信故ありて勘気を受け籠居して死せり。因て氏郷勢州に移封の時も一族従わずして本国に駐れり。
政信男子4人女子1人あり。
長男を長右衛門(初久八と称す)重良といい蒲生秀行の招に応じ会津に来り岡半兵衛重政が姉を娶れり。今に重政が墓(半兵衛町極楽寺にあり)に彼が家にて香花を供するはこれを以なりとぞ。
次男は平左衛門(初小八と称す)信充という。
三男を三大夫(初喜八と称す)政國といい、上杉景勝に従い羽州長谷堂の合戦に打死す。
四男を作吾政慶といい初築州に至り黒田家を干し後仕を辞して会津に来る。
女子は徳子と称し豊臣家に官事せり。これ等の因にて天正中(1573年~1593年)諸役免除の書を与えらる。
重良が子を源六正勝といい、子孫上杉・蒲生・加藤三家に歴仕し耶麻郡熊倉村を領せしと見え。その村の肝煎赤城長五郎が家に彼が租税を受取りし時の書を蔵む。(熊倉村の条下を併見るべし)
加藤家石州吉長に移りし時、彌平次政度といいもの浪人しこの町に住せしより、相続て今の勘左衛門政方に至りしという。
寶物
太刀 一口
半より折れしものにして『國□』と銘あり。下の文字明ならず。
古布 一町
4尺四方計。淡黄に白紋あり。所々に血の染し痕見ゆ。往時戦場にて首桶を裹みしものという。
豊臣家文書 一通
その文如左
各々儀諸公事に令免除候之間可成其意候也仍如件
天正十貳 筑前守
七月十日 秀吉(印)
徳 母儀
川副久八とのへ
同 小八とのへ
同 作五とのへ
同 喜八とのへ
消息 一通
両邊は缺て完からず。
左に出す。
(※略)
外部リンク等
最終更新:2026年01月14日 22:34