老町の北に並び、末は西黒川小黒川分の地に通す。
長6町50間・幅4間、家数138軒半(商家宅地の割余を1軒に充ざるものは半軒前と称して課役を弛む。桂林寺町・河原町等比例に同じ)、末は民居に続く(即小黒川分の地なり)。長31間・幅3間、家数5軒、北小路四谷という(耶麻郡慶徳組新宮村にこの町と道場小町紺屋町はもと彼地にありし由をいい伝う)。
秤座
この町の南頬にあり。
中村五左衛門という守随彦太郎が出座にて奥州一ヶ所の秤座なりとぞ。
神社
稲荷神社
この町の北頬にあり。
相伝う。
往古この地に里人多く集り刈稲を商いし故稲座明神という。
慶長の頃(1596年~1615年)までは社木に槻の大樹ありしが火災に逢て枯失せしという。
鳥居あり。安養院司なり。
寺院
安養院
稲荷神社の境内に続く。
山號を稲座山といい、醍醐偏知院の末寺真言宗なり。開基の年代詳ならず。
初は郭内延壽寺の地にあり慶長中(1596年~1615年)蒲生秀行より寺領50石を与て祈願所とし忠郷の時今の地に移るという(寺領今はなし)。
本尊観音客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
長福寺
この町の南頬にあり。
萬松山と號す。上野国白井雙林寺の末山曹洞宗なり。慶長3年(1598年)守應という僧開基す。
本尊釈迦客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。堂中に姥神の像を納む。
熊野三所宮
境内にあり。災いに罹て再建未だ成らず。
旧家
小池傳吉
世々この町の検断を勤む。
先祖は清和源氏にて、小池左近源實利とて甲州小池郷に住し武田信玄に仕ふ。
實利が長男を實次といい初め藤七と称し後に理之介と改め会津に来り葦名盛氏の仕え弓大将となる。
その次を外池信濃と称し、またその次を内池備後とて2人共に蒲生氏郷に仕えり。
女子は金上遠江守盛備に嫁せり。
盛氏自筆の文書を以て實次に宅地を与ふ。これよりこの町に住し子孫相伝て今に至れり。
盛氏曽てその宅に宴し、三階の楼に登り歓のあまり筆を援て北大楼といい額を題す。盛氏修理大夫なるにより改て歌之丞と名乗るべき由を命ず。この時實次貞宗の短刀を献せりという。
隆盛の時に故ありて仕を辞し、南山檜原郷に蟄居する事8年、蒲生氏郷封に就て信濃と備後がゆかりによりその名を聞き及でこれを招く。されど實次は盛氏の恩顧厚かりし故仕る事を願わず固くその聘を辞す。この時氏郷より日月を彫たる硯と三足の蟾蜍の水滴を与えり(今猶家に伝ふ)。
嗣子雅楽之丞實忠仕て代官たり。實忠死し弟雅楽之丞實家嗣て仕えしが蒲生家絶て浪人し、その子傳吉實明加藤家領知を収公せられし時、台命ありて諸士の家宅を引受け漆蝋の府を守らしむ。因て官より廩俸を賜りしという。
当家入封の後家資を以て新田200石の地を開き闢きし功により寛文7年(1667年)に知行100石を与え丁夫5人を率い戎事従うべきよしを命ぜり。
これより今に至てその子孫絶えずここに住し検断を勤む。
盛氏の文書1通を蔵む。
その文左に載す。
其方屋敷之事うしろ町に可遺候請󠄁取早々使に被越可在候左候はゝ合可遺候かしこ
止々齋判
小池方へ
赤城惣兵衛
その先藤原氏にて波多野民部大輔経秀が後なりという。
永正の頃(1504年~1521年)赤城勘解由忠頼というもの始て上野国赤城に住し、後流落してこの国に来り葦名氏に寄食し河沼郡野沢組赤井村に住せり。
その子玄蕃忠清中村備中忠義という者の家を継、ぎ即夏井村に住し氏を夏井に改めその邊の河井東羽賀及び耶麻郡西海枝萩野等の15ヶ村を領し葦名氏に属し天正17年(1589年)義廣奔敗の後浪人せり。
その時伊達氏の与えし文書あり(今はなし)。
忠清が子惣兵衛是忠氏をまた城に復しこの町に住す。そ
の子瀬兵衛是村という者ここの名主となり、相続いて今の惣兵衛方敬に至るまで5世なり。
外部リンク等
会津寺社縁起 - 神社の部
| 神社名 |
所在地 |
神社縁起 |
| 田中稲荷神社 |
若松市北小路町 |
草創不詳。伝・長久三年(1042年)建立ともいう。文禄二年(1593年)蒲生氏郷市神として祭る。慶長六年(1601年)蒲生秀行祈願所として社領五拾石を寄付。 祭神:倉稲魂命、大宮比売命、猿田彦命 |
※伏見稲荷大社で祀られる稲荷三神と同じ祭神です
十日市の神さま(田中稲荷神社)
十日市あれこれ
田中稲荷神社が十日市と縁の深い神社であることはあまり知られていない。宥盛法印裏書や神社の書き付け板によると、文禄二年(1593)市神を祀ったのが始めとされている。
南は大町堅町の中央(遠藤米店あたり)、北は二之町(伊勢屋の前)の二ヶ所に市神さまの仮屋を作ったという(『貞享風俗帳』)。現在も南北二ヶ所に釘一本も使わずに仮宮を建てる。そして当日朝六時頃に神社から御神体に白い布を被せて南北に遷す。御神体は木造男神坐像二躯で、南には老年像(像高46.9cm)春日大神、北には若手像(像高45.7cm)住吉大神をそれぞれ祀る。また、この祭札には昔、検断の倉田氏が屋上より俵を投げてそれを引き合って、南が勝てば米価高く北だと安くなるという習わしもあった。
この市には当社の神官自ら手で作ったコップぐらいの大きさのワラの俵に焼塩をつめた「市塩」を売る。これを買って囲炉裏や火鉢などの火をたく所を清めるのである。数十個作るのが精一杯で朝の早いうちに売れてしまう。市につき物の風車は身上が回るように、起き上がり小法師は転んでも起きられるようにと必ず買い求める縁起物である。
黒川城と狐の足跡
当社の草創は未詳であるが、至徳元年(1384)黒川の安養院の稲荷社を黒川館の内に遷したという記事が見える。社は田んぼの中であったので「田中社」と名付け、この地に里人集まり刈稲を商っていたので稲倉明神とも言っていた。慶長の頃、蒲生忠郷の時に北小路の現在地に遷したという。伝説によると、葦名直盛が黒川城築城の縄張りに苦心していた時、この田中稲荷に祈願したところ、霊夢があり目が覚めてみると降り積もった雪の上に狐の足跡がありそれをしるべとして築城の縄張りを決め、無事完成できたといわれている。その時、現在お城にある鶴ヶ城稲荷を田中稲荷から勧請し、若松城の鎮守として祀られた。当社は狛犬のかわりに狐が左右にある。
メモ
祭神:倉稲魂命
祭礼:初午、鎮火祭、午後から屋敷稲荷祭りに神官が各家をまわる。福西綿店のものは古くて立派だと言われている。
例大祭:七月十日。一名「ほほづき市」ともいう。大町通りに露店並び賑やか。夕方神輿渡御あり。
(『会津の神社』より)
最終更新:2026年01月15日 00:23