紺屋町の北に並び、長2町53間・幅4間、家数52軒。
そのかみ、ここを闢きし時この地葭原なりし故町名となりしという。
旧家
國安太吉
姓名の出る所を詳にせず。
先祖を清太郎光國といい近江国に住し、濃州関の住志津三郎が伝を得て刀剣を鍛ふ。
天正18年(1590年)蒲生氏郷に従て会津来り、慶長中(1596年~1615年)秀行のために佩刀ならび矢鏃を製せしに、秀行これを喜し世々國安と銘ずべきよしを命じ且く扶持米を与ふ。尋て加藤家の時も給米を与えられ当家封に就て月俸を与ふ。
今に矢鏃をつくることを業とし家人の列に次せしむ。
昔時蒲生家より扶持米を与えられり時の文書家に伝ふ。如左。
返〻兼定に被下米之儀候此段廻侯以上
一書申入候然は兼定に米拾五石被下候由候清太郎と申鍛冶いn御扶持方五人ふち被下候間可有御下行由御意候恐〻謹言
慶長一六 岡左衛門左
七月九日 清長(花押)
石橋筑後殿
人々中
外部リンク等
移住する手工業者
この職人のあり方についてもう一つふれておかなければならないのは、近世初頭、それもごく初期には移封された領主について、手工業者も共に移動していたことである。商人も、領主と共に移動しているが、禄をはんで抱えられている手工業者には、一層その傾向がるよかったといえる。第82表にみえる手工業者は、慶長六年(1601)に蒲生氏が再び会津へ封じられた時に伴われてきた人々であるし、また、「風土記」によってみると、領主の移封に伴われてきた何人かの人々を見ることができる。
萩原小隅は甲冑作りで、近江に生まれ、蒲生氏郷の家臣として若松に来て、後には加藤氏にも仕え、馬場四之町に住んだ(風土記巻十七)。
下坂甚左衛門は刀匠で近江出身である。加藤氏に従って、若松に来て、のち六日町に住んだ(風土記巻十八)。
中条道辰は刀匠である。加藤氏に供して若松に来て、中六日町に住んだ(風土記巻十八)。
国安太吉も刀匠である。近江の出身で、氏郷に従って会津に来た人で、後矢鏃を作り原町に住んだ(風土記巻十九)。
吉田甚蔵は鍛冶工で、蒲生氏以来若松に定住し針屋町に住んだ(風土記巻十九)。
三善藤四郎は刀匠である。安芸国広島生まれの人で、寛永四年(1627年)、加藤氏会津入りと共に会津に来て、定住したと伝えられる。常慶寺町に住んだ(風土記巻二十一)。
また、会津郡高久組鍛冶屋敷村は、康暦元年(1379年)芦名直盛が鎌倉から下向した時に多くの鍛冶を伴って来てここに住ませたので、村の名になったといわれる。さらに、領主の移封と同時に移動したというのではなくても、移封後その技術を必要としてこの地に招かれて、御抱え職人になった人々もある。
最終更新:2026年01月15日 20:51