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陸奥国 若松 郭外 下町 道場小路(だうぢやうこうぢ)
大日本地誌大系第30巻 157コマ目
幕末会津若松城下地図 - 会津若松市/デジタルアーカイブ

原町の北に並び、長2町53間余・幅3間、家数45軒。
この町郭内に在し時、当麻の道場に近かりし(ゆえ)名けり。
或は昔ここに窪道場(赤井丁日光寺これなり)ありし故名けりともいう。
(この町半より東は上町に隷す)

寺院

観音寺

この町の北頬にあり。
馬寶山千手院と號す。醍醐三寶院の末山にて会津真言宗四ヶ寺の一なり。
明徳3年(1392年)武田大和守という(何人なる事を詳にせず)者、今の鳥居町伊舎須弥神社の邊にこの寺を建立せり。
その頃密家の僧に法印仁鑁とて名高き沙門ありしを、請して当寺の開山とし、天文21年(1552年)葦名遠江守盛舜の臣岡崎某大和田の地(その地を伝えず。河沼郡代田組に大和田村あり。若くは彼地を指すにや)を割て寺領とす。
蒲生氏城郭修理の時今の地に移れり。
これより先、天正巳丑の乱(天正17年=1589年。葦名家と伊達家の戦い)に11世信榮という者難をさけて越後国に逃れし故、古記を失て往昔のことみな烏有(うゆう)*1せりという。今(わずか)に伝るところ古文書数通あり。
また鐘一口あり。径1尺2寸余『天和三癸亥歳壬五月廿四日住持沙門秀弘』と彫付あり(天和3年=1683年)。

制札

門外西にあり。

客殿

火災に罹て再建未だ成らず。

庫裏

12間に5間。本尊大日を安ず。

観音堂

庫裏の西南にあり。

稲荷神社

観音堂の北にあり。

寶物

和漢朗詠集註 五巻
末巻之跋に「永禄六年甲子四月十七日於常州佐竹太田求之奥州會津柳津之住僧悪筆恥入候後見之形々阿守一返頼入候治部卿實名眞榮」とあり。
按ずるに、甲子は七年なり。六年とあるは誤ならん。(※永禄六年(=1563年)の干支は"癸亥")
提婆画像 一幅
裏書に「天正十三年乙酉閏八月廿八日修復求持主良尊六十四 遍照光院住持良尊」とあり。(※天正十年=1585年)
大威徳明王 一幅
筆者詳ならざれども、極て古画なり。
「慶長二年卯月吉日北條妙性寺宥尊寄進之小菅山大聖院常住持弁胤代也」という裏書あり。(※慶長二年=1597年)
曼荼羅 一幅
「慶長十五年庚戌季秋十日素主宥譽四十七」という裏書あり。
この外、雜文の奥に文明・文亀・永禄・天正等の年号を書せるもの数多あり。煩を省て載す。
画像 四幅
一幅は普賢の図。
一幅は摩利支天の図。
一幅は如意輪観音の図。
一幅は不動の図。
共に古画なり。
愛染明王 一躯
古佛なり。
古文書 三通
その文如左。
(※略)

俊精は当寺14世の住職なり。
河沼郡柳津村圓藏寺の縁起に、慶長元和(1596~1624年)の際蒲生秀行の命によりて密宗の徒かわるがわる彼地虚空蔵堂の司たるよし見ゆ。柳津別当とあるはこれに因れり。


外部リンク等

最終更新:2026年01月15日 21:51
添付ファイル

*1 まったく無いこと