八十里越

陸奥国 会津郡 黒谷組 叶津村 境澤(さかひざは)
大日本地誌大系第31巻 142コマ目

境澤峠。一に八十里越ともいう。
村中より漸々に登り5里12町、頂上に至る。
この間に鍵金岪(かぎかねへつり)山神坂(やまのかみさか)小三本坂(こさんほさか)大三本坂(いほさんほさか)・大峯坂等の名あり。

道極めて嶮しく牛馬を通せず。
(いただき)は即陸奥・越後の界なり。ここを()えて村松領蒲原郡芦平村及び同郡下田村に至る。
坂東道80里あり因て八十里越の名ありという。されども里程(りてい)を正すときはこの名にかなはず。

旅人通行するに春夏の間も拂曉(ふつぎょう)*1にこの村を出て日没の頃やうやく芦平村に至る。負担せる者は辛苦して頂に至れば日暮るとぞ。()嶮岨(けんそ)の山路に行かかり天気悪ければ通行なり難し。故にここを通る者は必ず数日の糧を(つつ)(み)てゆく。

村民常に頂上に小屋を構え炊具・食器を設置き往来の人をたすく。よりて旅人ここに宿し天気はるるを待ち賃銭を遺して往く。小屋主は5、7日を隔てここに来り残缺(ざんけつ)の器あればこれを修補し遺しおく処の価を取て帰る。かかる処なれば固より旅人も多からず。人性また質朴にて外人この銭を取ものなしとぞ。これ辺鄙(へんぴ)の一美風ともいうべし。

この道は昔より有しにや。
高倉宮宇治の戦をのがれ此処に落ち給し時、この村の長讃岐という者が元に宿らせて給て、これより越後国に通り給う時讃岐が者許多(あまた)(えら)びて宮を助けゐらせしかばこの峠を難なく越させ給て、猿(糸+慮)平(さるおかせ-たいら)(村松領)という所にて暫く憩はせ給う。因てその平を御所平という。
また此わたりの山に鞍懸(くらかけ)烏帽子(えぼし)嶽などいう名あるもこの故なりといい伝う。


参考

国土交通省北陸地方整備局内に資料がありましたのでご紹介します。旧道から現在に至るまでの経緯を記載したパンフレットのようです。
八十里を翔ける(PDF)
※資料より地図部分を抜粋

日本山岳会のホームページに歩いたレポートが載っていましたのでご紹介
八十里峠秋色 古道探訪の山旅

最終更新:2020年04月02日 00:34
添付ファイル

*1 払暁の旧字体。夜の明けがた。あかつき