| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 天平勝宝5年 | 753年 | |
| 天平勝宝6年 | 754年 | 鑑真、平城京へ到着。聖武天皇の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について一任される 4月、東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戎を授ける これが日本の登壇授戒の |
| 天平宝字2年 | 758年 | 鑑真、淳仁天皇の勅により |
| 天平宝字3年 | 759年 | 鑑真、新田部親王の旧邸宅跡に |
| 天平宝字4年 | 760年 | 徳一、藤原仲麻呂?の11男として生まれる(天平勝宝元年(749年)の説もある) |
| 天平宝字5年 | 761年 | 大宰府観音寺及び下野国薬師寺(栃木県下野市)に戒壇が設置され、戒律制度が整備されていった |
| 天平宝字7年 | 763年 | 鑑真、唐招提寺で死去。76歳 |
| 天平宝字8年 | 764年 | 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、鎮圧。 |
| 天平神護2年 | 766年 | 最澄(幼名・広野)、 |
| 宝亀 5年 | 774年 | 空海(幼名・眞魚)、 |
| 宝亀11年 | 780年 | 最澄、近江国分寺にて得度を受け沙弥となり最澄と名付けられる。その後近江国師の行表に師事 |
| 延暦元年 | 782年 | 徳一、筑波山山頂に古筑波山寺(のちの筑波山 |
| 延暦 3年 | 783年 | 長岡京遷都? |
| 延暦 4年 | 785年 | 最澄、東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となる。その後の7月中旬に比叡山に籠る |
| 延暦 7年 | 788年 | 空海、平城京に上る。入京後は佐伯院に滞在 最澄、比叡山に小堂を建て自刻の薬師像を安置(根本中堂の位置か?) |
| 延暦 8年 | 789年 | 空海、阿刀大足に師事 |
| 延暦10年 | 791年 | 最澄、修行入位という僧位を授かる |
| 延暦11年 | 792年 | 空海、京の大学寮に入り明経道を専攻 |
| 延暦12年 | 793年 | 空海、大学での勉強の他、山林での修行に入る(19歳) |
| 延暦13年 | 794年 | 桓武天皇、平城京(長岡京)から平安京へ遷都 |
| 延暦16年 | 797年 | 最澄、12月10日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。 また比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか助力を請うため南都諸寺に願文を送った |
| 延暦17年 | 798年 | 空海、 ここから入唐まで足取り不明。この時期「虚空蔵求聞持法」も授かっている 最澄、10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ毎年行われた |
| 延暦20年 | 801年 | 最澄、南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催す |
| 延暦21年 | 802年 | 最澄、和気弘世が氏寺の高尾山寺催した天台法門の講会に招かれ講師を務める この時代、仏教宗派は南都六宗に限られていた。特に法相宗と三論宗に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる |
| 延暦23年 | 803年 | 空海・最澄、第18次遣唐使として5月に入唐の途につく |
| 貞元20年(唐) | 804年 | 空海、東大寺戒壇院で得度受戒 空海・最澄、第16次遣唐使留学僧として長安に入った 最澄、10月には最澄は天台山に登る |
| 貞元21年(唐) | 805年 | 最澄と義真、道邃から菩薩戒を受けるが、これが最澄と天台法華の教旨による大乗戒との出会いとなった。 |
| 永貞元年(唐) | 805年 | 空海、2月に西明寺の般若三蔵に師事し梵語を教わる、5月に青龍寺の恵果和尚に師事、8月に伝法阿闍梨位の灌頂を受け 最澄、4月に峯山道場で順暁から灌頂を受ける。5月に帰国の途に立つ。6月に対馬に着いたのち直ちに上京 |
| 延暦25年 | 806年 | 最澄、正月3日に年分度者に天台法華宗を加える改正を上奏する。これ以前の年分度者は三論宗と法相宗のみに認められていたが、最澄の提案は天台法華宗を含む5宗を加えるものであった |
| 大同元年 | 806年 | 空海、唐から帰国し大宰府に滞在。朝廷から帰国が早まった(20年が2年)事を訝しがられ大同4年まで入京を許可されなかった。大同2年より2年間大宰府・観音寺に 最澄、唐より帰国し天台(法華)宗を開く 徳一、会津岩梯山に清水寺(のちの慧日寺)を建立 磐梯山噴火。標高2000mを越える富士山型の山から、大磐梯・小磐梯・赤埴山・櫛ヶ峰に分かれる |
| 大同 2年 | 807年 | この年、東北地方で徳一に関係する数多くの神社仏閣が創建される |
| 大同 4年 | 809年 | 空海、和泉国槇尾山寺に滞在。7月に入り入京する。この頃の空海は最澄とは蜜月関係だった |
| 弘仁 8年~同12年 | 817~821年 | 最澄、この頃に『 |
| 大同 5年 | 810年 | 薬子の変 |
| 弘仁 2年 | 811年 | 空海、乙訓寺の別当を翌年まで務める |
| 弘仁 3年 | 812年 | 空海、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。さらに12月には胎蔵灌頂を開壇 |
| 弘仁 4年 | 813年 | 最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れたが空海は拒否 最澄、4月に『 |
| 弘仁 5年 | 814年 | 最澄、春に宇佐八幡と香春神宮寺に参詣し、入唐の無事に感謝し妙法蓮華経等を奉納。 正月の |
| 弘仁 6年 | 815年 | 空海、会津の徳一菩薩・下野の広智禅師・萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼 |
| 弘仁 7年 | 816年 | 空海、朝廷より高野山を賜る |
| 弘仁 8年 | 817年 | 最澄、春に東国へ向かう。澄が無名の頃に写経に助力した道忠の弟子らの寺々を訪問。 |
| 弘仁 9年 | 818年 | 最澄、天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった |
| 弘仁10年 | 819年 | 最澄、『天台法華宗年分度者回小向大式』が提出されると、嵯峨天皇は「真理に叶ったものであれば取り計らうように、真理に叶わなければ取り計らってはならない」と返答 |
| 弘仁12年 | 821年 | 空海、満濃池(香川県仲多度郡まんのう町)の改修を指揮 |
| 弘仁13年 | 822年 | 空海、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院を建立した。平城上皇に灌頂を授けた 最澄、2月14日に「 |
| 弘仁14年 | 823年 | 空海、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場にした |
| 天長 5年 | 832年 | 空海、高野山において最初の万燈万華会が修された |
| 承和 2年 | 835年 | 空海、入定 |
| 承和 9年 | 842年 | 徳一・没(天長元年(824年)、天慶5年(942年)の説もある) |
| 貞観 8年 | 866年 | 7月12日、最澄に対し「伝教大師」の諡号が |
| 延喜21年 | 921年 | 空海、後醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた |
| ~ | ||
| 天正17年 | 1589年 | 会津郡、伊達政宗の侵攻の余波で慧日寺が全焼。貴重な文献も消失 |
| N | 名前 | エピソード |
|---|---|---|
| 1 | 紀氏一門。文真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。また、長く神護寺に住しその発展に尽力した | |
| 2 | 空海の弟。付法弟子が5人いる。貞観寺の開基で貞観寺僧正、 | |
| 3 | 佐伯氏で空海とは同族。初代東寺長者。弟子に | |
| 4 | 讃岐国多度郡の人。一説には日本の華厳宗の正統を継ぎ第七祖となったといわれる。その後、空海から真言密教を学び灌頂を受けた | |
| 5 | 出自不詳。はじめ東大寺で三論宗を学び、後に空海に師事して密教を学び灌頂を受けた。 | |
| 6 | 大同5年(810)薬子の変に伴う政変により廃太子となる。 貞観3年(861年)天竺を目指して旅立ち消息不明に | |
| 7 | 出自不詳。はじめ東大寺で三論宗・法相宗を学び、のち空海に師事して密教を学んだ。空海の没後、京に修学寺を開き教授したとか、伊豆国に住して走湯房・修禅寺を開創したと伝えられる | |
| 8 | 出自については不明であるが、近江高島の人と言われる。 泰範は最澄やその弟子らとともに胎蔵界灌頂を受け、翌弘仁4年3月6日に泰範は円澄ら最澄の弟子とともに金剛界灌頂を受けた。この後、最澄他弟子らはみな比叡山に帰ったが泰範は高雄山に留まった。彼を愛弟子として、また後継者として目していた最澄は再三比叡山に戻るよう促すも、泰範が比叡山に戻ることはなかった | |
| 9 | 讃岐の人。俗姓菅原氏(一説に阿刀氏)。母は空海(弘法大師)の姉と伝えられる。空海の甥 | |
| 10 | 母は宗方氏とされるが父は不詳(一説に藤原良房の子といわれる)。 |