融通寺



自然山と號す。京師智恩院の末寺浄土宗なり。
縁起に浄緣国師の開基にて初は天台宗なり。浄緣は大原良忍の弟子にて(あまね)融通念佛を勧め、この国に来り河沼郡八葉村(今の代田組冬木沢村これなり)に一宇を建て自然山融通寺と称す(浄緣を国史と称すること縁故あるへけれども今詳ならず)。康暦元年(1379年)葦名直盛鎌倉より下向し二井寺村(今の南青木組飯寺村なり)の西北に居り後小舘(今の融通寺城安寺の在所なり)に移り居こと3年、至徳元年(1384年)小田山城(今の府城なり)営築なりて小館をば当山第3世融海に与え寺を移さしむ。第5世隆譽が時浄家となる。文禄元年(1593年)13世文譽蒲生氏郷に請て今の地に移り、旧地をば小舘山城安寺と號しその子弟をして住せしむ。その後圓藝という僧秀行の菩提所となり、洛に赴き本山智恩院請て官寺とならんことを求む。秀行よりもその事を推挙せし(ゆえ)智恩院の直末となり、後陽成帝*1より遍額法制ならび()宸翰の和歌を賜えり。蒲生忠郷その母堂の位牌(法號を昌淸院泰譽大姉という)を安し寺領200石を寄付す。後また東照宮の為に祠堂を建立し宰相忠郷・中務忠知兄弟、萬部頓寫の法合を行うという。寺領200石は今に至るまで故の如し。寛保の頃(1741年~1744年)までは東漸院・大慶院・地蔵庵とて塔頭三宇ありしが火災にかかりて再建未だ成らず。

制札

客殿

庫裏

鐘楼

観音堂

稲荷神社


寶物

三尊弥陀繡像 一軸

六観音四天王繡像 七幅

融通念佛根本 二巻

開山浄縁影像 一幅

和歌掛物 二幅

墨画掛物 二幅

勅制文 一軸

古文書 六通


最終更新:2020年02月24日 03:50

*1 後陽成天皇。在位:天正14年(1586年)~慶長16年(1611年)