※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記20』より
外郭の東北にて通数条あり。蒲生氏の時徒の者を置し所故この名ありとぞ。今も多くは徒の者住し外に家人の居宅多し。
北の1区の大通りにて上下の称あり。東は薬園前通より西は法林寺前通に至る。
長1町59間・幅6間、家数18軒。
中に小川あり。西に流れ下長丁を経て郭内五之丁に入り車川となる。
上長丁の末に続き西は横三日町の南端に至る。
長3町50間・幅6間、家数58軒。
上長丁の東端より南に折れ一乗寺前通に至る。
南北1町17間・幅2間、家数11軒。
別墅
この通りの東頬にあり。中に薬草を栽るゆえ薬園と称ふ。東は南青木組、北は千石町分の田圃に連なる。
祭田
別墅の後に数頃の田畑あり。毎年ここにて籍田の式を行い穀熟するに及で粢盛に供す祭田と称へ常に注連を張て不浄を遠ざけり。
念佛清水
薬園の北にあり。周7間計。末は徒町に注ぎ清水川という。この川に水苔を産す。
薬園前通の中程より東に折れ南に廻り一乗寺前通に出つ。
長1町17間・幅3間、家数17軒(千石町分の地雑れり)。
新丁の南に並び、天寧寺町の北にあり。東は正教寺の門前より、西は浄光寺通に至る。
長1町30間・幅2間余、家数14軒。
また東端より南に折れ天寧寺町に通ずる小路あり。正教寺通という(千石町分の地雑れり)。
寺院
一乗寺
この通の東端にあり。
浄土宗野州大澤圓通寺の末山なり。頓教山と號す。
縁起を按ずるに、開山格傳は常州笠間の産なり。早歳にして披薙し圓通寺の会下により第13世良信に師とし事すこと年あり。時に良信、格傳が勤業懈ることなきを善みし行基の作る所の弥陀の木像を付与す。後格傳霊夢の告により彼像を背にして諸国を行脚し本州に来り。河沼郡柳津虚空蔵に詣で通夜せしに相識るもの出来て府下に伴われ暫くその人の家に寓居し、彼佛像の来由及び先の霊夢の事など具に語るに人々凡下の僧にあらざる事を知り、蒲生家の臣等に相議して領主に請い即この寺を開かしむ。時に慶長15年(1610年)なり。
本尊弥陀客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
稲荷神社
同上
寶物
- 掛幅 一軸。蜷川新右衛門一休に与る書なり。その文如左。
借用申地水火風返辨申今月今日
かり置きし五つ物を四つ返し本來空に今そおもむく
生死去來棚頭傀倱一線斷時落々磊々
いつの日のいつまて爰て出年坊すい代してはては本と
敷島てまいすてつゝは集てところふ姿はもとの木のきい
一休老衲(不詳)
正教寺
一乗寺の東にあり。
豫州松山妙楽寺の末寺浄土真宗なり。
元和9年(1623年)釋榮という沙門東本願寺に至て寺號を請受けこの寺を開けり。
本尊弥陀客殿に安ず。
薬園前通の西に並び、北は上長丁より南は一乗寺前通に至る。
長1町20間・幅4間、家数21軒。
中丁の西に並び、天寧寺町の末より北の方上長丁に出る通にて西頬は外郭の隍なり。
長2町25間・幅4間、家数13軒。
また、表丁ともいう。
上長丁の南に並び、浄光寺通の中程より西に折れ外郭の隍の傍て片頬丁なり。西は法林寺前通の末に出つ。
長1町2間・幅3間余、家数5軒。
隍端通の末に続き西は六軒丁に連なる。
長1町47間・幅3間、家数12軒。
これも片頬丁なり。
下隍端の末に続き屈折して北の方下長丁に出る通なり。
長1町31間・幅2間、家数11軒(千石町分の地雑れり)。
上長丁の東より北の方、千石町分の田甫に通す。
長1町30間・幅3間、家数25軒。
昔は工匠を置きし所故この名ありとぞ。
東大工丁の西に並び、井上浄光寺の門前より上長丁に出る通なり。
長35間・幅3間余、家数5軒。
浄光寺前通の西に並び、北は願成就寺前通より南は隍端通まで。
長1町19間余・幅2間計(この通みな東西の丁の裏行なり)。
法林寺前通の西に並び、北は願成就寺前通より南は下隍端に至る。
長1町29間・幅2間余、家数5軒。
長丁の北に並び、東は浄光寺前通より西は臺町(上町)まで。
長2町55間・幅6間、家数26軒。
寺院
浄光寺
明光寺
浄光寺の南に在り。
開山道味という僧元和年中(1615年~1624年)京師本願寺に至り本尊ならび寺號を請い、帰て地を加藤氏二請てこの地を開く。時に寛永6年(1629年)なり。
京師東本願寺の末寺浄土真宗なり。
本尊弥陀客殿に安ず。
寶物
- 親鸞画像 一軸。本願寺准如が元和8年(1622年)の裏書あり。
法林寺
この通の北頬にあり。
稲臺山と號す。浄土宗京師智恩院の末寺なり。
もと下野国宇都宮にあり轉陽山法輪寺と号す。蒲生氏再封の時従てこの地に来る。
鐘楼に懸る所の鐘径2尺、銘文なし。
客殿
7間に6間、南向。本尊三尊弥陀
稲荷神社
境内にあり
観音堂
同上
願成就寺
法林寺の西にあり。
叶山と號す。京師智恩院の末寺浄土宗なり。
もと耶麻郡五目組上三宮村にありて加納山願成寺と號す(上三宮の条下に詳なり)。慶長4年(1599年)22世世良翁上杉景勝の名に因て今の地に移りこの寺を開き即願成寺の號を用い加納山を改て叶山と號す。故に良翁を以て開山とす。2世尊譽に至て堂宇の制初て備る。故にこれを中興とす。寛永20年(1643年)肥後守正之封に就に及て出羽国浄土寺の僧霊徹従てこの地に移り当寺の住持職となれり。これを第7世とす。この時寺領100石を付せり。寺號就の字を加えしは正保2年(1645年)霊徹洛に赴き勅を蒙て改めし所といい伝う。
制札
門外西にあり
総門
2間に1間余、南向き
外繋
門を入て左にあり。2間に1間半。
客殿
8間半に7間半。南向。本尊三尊弥陀。
この北に4間に3間の所あり。台徳院殿、文昭院殿、有章院殿、惇信院殿の霊牌を安置し奉る。また傍の一段卑き所をしつらい当家の位牌を蔵む。
書院
8間に3間半
上長丁と願成就寺前通の間にあり、東は浄光寺前通より西は法林寺前通に至る。
長46間余・幅2間、家数6軒、南頬にあり。
この丁念佛清水(薬園前通の前つ)の末流注ぐ故この名あり。
願成就寺前通より北の方千石町に出る通なり。
長48間・幅4間、家数13軒。