浄光寺


京師*1西本願寺の末山浄土真宗なり。
善性比丘12世の末流権大僧都教尊という僧草創す。
縁起を按ずるに、善性姓は井上氏にて越後守たりしが、承元元年(1207年)親鸞越後国に流されしに及て請して法談を聞き菩提心を発し披剃して善性比丘と號し、信濃国高井郡井上村に移住し承久2年(1220年)2月2日寂す。これより的々相承て第7世周観に至り始て井上浄光寺と號し努て一宗を興隆せしかば一派の中興とす。(ゆえ)に本願寺より親鸞周観が像を合図してこれを与えり。その後教尊信濃国を去て越後国頸城郡柳崎村に至り小庵を結びまた井上浄光寺と號す。後また同州三島郡飯塚村に至て一宇を建立しまた井上浄教寺といい故に柳崎村の寺を改て浄福寺という。また同州長岡に至て一宇を建て井上浄光寺と號し飯塚村の寺を改て明鏡寺という。文禄元年(1593年)教尊始て本郡に来りしに氏郷の諸臣意を傾る者多かりしかば各相謀て地を領主に請受け寺を建てまた井上浄光寺という。今の浄光寺はその旧迹なり。これに於てまた長岡の寺を改て徳宗寺という。その頃府下に太子守宗多くその党熾なりしに教尊(ことごと)く論して改宗し本山の末寺たらしむ。本山その功を好みし祖師親鸞已下(いか)12世の法名を連署し先に親鸞周観が画像兵燹(へいせん)に罹て烏有(うゆう)せし(ゆえ)これも再図して併せ与ふ(寶物の部に載す)。慶長7年(1602年)蒲生秀行の名によりて郭北桂林寺町に遷し寛文11年(1671年)この地に移り今に内陣の列に歯す。善性比丘より現住泰巖に至て凡て20世なり。

客殿

6間半四面。本尊弥陀。

寶物

親鸞周観画像

一幅。親鸞が偈を書す。
本願名號正定業至心信樂願因成等覽證太涅槃必至滅度願成就
この画像は教尊が時本願寺より授し所にて、縁起に所謂再図して与るいうものなり。『慶長十三朞戊申九月廿一日信濃國高井郡井上郷浄光寺住物也釋准如判願主釋教尊』と裏書あり(慶長13年=1608年)。

聖徳太子像

一幅。上に書せる文如左(※原文も参照の事)
吾爲利生出彼衡山入此日域下伏守屋之邪見終顯佛法之威徳
これも教尊が時与る所にて准如が慶長9年(1604年)の裏書あり。

七高祖画像

一幅。裏書同上

教尊影像

一幅。准如が与る所にて慶長19年(1614年)の裏書あり。

善導圓光画像

一幅。蓮如筆

草書六字名號

一幅。地金泥にて親鸞筆なり。

草書六字名號

一幅。法然筆。墨痕剥落し隠々として僅に見るべし。往古熊谷直實が所持の物にて戦陣に赴くことに兜鍪(とうぼう)*2の内に蔵め的に向うに一度も後れを取らず。故に勝軍名號と名くという。

草書六字名號

二幅。共に蓮如筆。

念佛口傳式

一軸。親鸞筆といい伝れども文詞筆勢(はなは)だ俗醜なり。

親鸞和歌

一幅。自詠自筆なり
(虫喰)の尾の 有無をはなるる 中のみち くるかたもなし 行かたもなし

珠数

一連。水精と桑とを交え貫けり。蓮如所持の物という。そのかみ教尊に贈りしにや。蓮如が消息あり。左に載す。
法は實にほとけをおもふこころあらハ 現世もくわのきのじゆず
是は貴僧へ進み候我等のかたみと御おもひ(虫喰)
とあり。

存如書

一幅。
法名釋善忠 文安二年八月十一日 本願寺如判
とあり。

准如消息

二通。その文如左
(※略)

和讃

一幅。古筆なり

太子木像

一軀。親鸞作という。長1尺6寸。

弥陀木像

一軀。長1尺5寸。作者を知らず

宣旨

二通。その文如左
(※略)

最終更新:2020年02月26日 07:49

*1 今日の都

*2 「兜」「鍪」ともにかぶとの意