道路より西を台和泉、或は単に台村ともいって、和泉の肝 煎の支配はうけていたが、寛文五年の書上げでも、文化六年の書上げでも、ただの八軒で独立した村の取扱いを うけてきた。恐らくここに、全く系統を異にする、磐城の専称寺の末山、浄土宗正栄山台泉寺があったためと思 うが、文化六年の風土記では、これを和泉村に二ヵ寺あるがように取扱っているから、台村独立扱いの由来は、 確認は困難である。