猪苗代城

陸奥国 耶麻郡 猪苗代 猪苗代城
大日本地誌大系第31巻 151コマ目

この城は若松の枝城にて弦峯の続きにあり。亀城(かめがしろ)という。

府城の東北に当り行程5里。
本丸は山をかたどり、三ノ丸と三ノ丸とは平地にて土居を築き隍を廻らし、搦手は帯郭の後山の腰を堀切り空隍と水隍と2重に要害を構ふ。元和の末(~1624年)までは半坂の西北より新町・本町の東南まで外郭ありて、隍をめぐらし土居ありて五門を開きしが、加藤氏の時(こぼ)ちしや今はなし。
城の東北は市店にて西南は田圃(たんぼ)なり。
この城は佐原大炊助経連が居所なりしにや。経連は遠江守盛連の長男にて光盛の異母兄なり。その子孫代々この所に住し耶麻郡半郡を領し猪苗代の主なりしと見ゆ(経連3子ありて共に従い来りこの辺に住せしという。氏族も多かりしにや。猪苗代の諸村に三浦某の古館といい伝るもの多し)。経連の事東鑑寛文元年(1661年~1673年)・同5年(1665年)に見ゆ。
永徳の頃(1381年~1384年)三浦時盛という者あり。その父某の菩提に隣松院という寺を開くという(今下館村にあり)。
また長帳に永正8年(1511年)猪苗代より黒川を襲うよしあればその頃までは黒川の葦名と抗せしと見ゆ。何の頃より降て葦名の臣の如く成しにか詳ならず(舊事雑考明應3年(1494年)の記に4月12日伊達尚宗・稙宗父子合戦敗して猪苗代に入るとあり。また文亀年中(1501年~1504年)葦名氏の為に猪苗代氏父子討れしと見ゆ。猪苗代氏父子というものその名知らず。凡て猪苗代氏歴代の事詳ならず。長帳にイナハシロトノと記せる処多けれども誰人にか考ふべき便なし。磐椅社の燈籠の銘に『平盛為』と彫付しは盛國が父祖なるも知るべからず)。
その裔弾正盛國に至り、天正13年(1585年)50歳にて嫡子盛胤に家督を譲り本城の西弦峯に住居を構え隠居せしが、幾程なくてまた新地(今に半坂町の北菜圃(さいほ)の中にその遺址あり)に遷る。盛國後妻の(そし)りを信じ盛胤を悪み再びもとの身に復らんとたくみしに因り父子の中久く和せず。これよりさき伊達政宗檜原に逗留せしとき会津を攻んと謀り盛國を語らひしかど、盛胤同心せずして事やみぬ。
同16年(1588年)盛胤黒川に伺候(しこう)せし隙を伺い盛國手の者どもを引具し本城へ理不尽に入りけるに、有合たるもの周章騒ぐ処を手の下に薙捨て心安く再び住す。かかりければ盛胤進退途に迷い、まず安積郡横沢(今は二本松領に属す)という所に居住せしが既に合戦に及び父子の争を引出し騒乱大方ならず。かくてこの事隠なく黒川に聞えければ義廣腹立して、詮なき争を仕出し上を蔑ろにしたる振舞なりとて暫く盛國を折檻して籠居させしが、後勘当を免されても萬年来の合釈とは事替りければ遺恨をいだき隠謀益深く、ついに伊達勢を引入て同17年(1589年)磨上の一戦に葦名累代の宗社を覆えしその身伊達家に属す(子孫今なお千台にありとぞ)。さて盛胤は會津にとどまりて今の川東組内野村にて終われり。
同18年(1590年)豊臣家黒川に入り蒲生氏を会津に封せられしとき、氏郷その臣町野左近を城代とす(2万8千石)。
上杉氏の時今井原源左衛門をおく(8千石)。
蒲生秀行の時関十兵衛を城代とす(8千石)。
慶長14年(1609年)十兵衛故ありてここを去し後岡越後(1万石)、岡左衛門(8千石)というものついでその職に居る。
加藤氏のとき堀部主膳(1万石)城代たり。
寛永20年(1643年)肥後守正之封に就いてより今に至るまで城代をおきて守らしむこと旧の如し。

本丸

城の中央にて1段高き所の腰を堀切て本丸とす。
周130間余。
代々の城主の屋形この内にあり。
また二之郭あり。

門2
共に平門作なり。
一は南にあり。南向き。黒門と唱ふ。直に南の曲輪に通す。
一は東にあり。東向き。坂道を下り帯曲輪のかたに通す。

二之郭

本丸の南にありて1段卑き所なり。

門3
一は東にあり。多門にて坂道を下り東のかた帯郭に通す。番所北向き。
一は西にあり。小門にて坂道を下り帯郭に通す。
一は東南の隅にあり。井戸門という。その下に井あり。

腰掛
多門の南にあり。

兵器庫
南の方にあり。

帯郭

本丸の南の方より西北にめぐり、東の方二之郭に登る坂道まで押廻せり。
周359間。

番所4
一は南にあり。
一は西にあり。
一は西北の隅にあり。
一は北にあり。

塩硝穴蔵
二之郭のしたにあり。
また東南の隅にも蔵ありて塩硝をおさむる所とす。

角場
北の方にあり。


坂道をくだりて南に出れば両頬に石垣ありて周30間余の升形あり。この外に冠木門あり。東向き。ここを追手とす。
門の内に井あり。

胴丸
東の坂道の南にあり。
櫛形の郭なり。
周10間余。

二之丸

本丸の東にあり。
周340間余。
水隍めぐれり。
士屋敷あり。

城代屋敷
西北の隅にありて門は南に向う。

学館
城代屋敷の内にあり。
諸生受業の次第大抵国学日清巻一塾の作法にならい、塾師をおきてこれを司らしむ。
毎歳春秋に司業1人を遣し業を試み勤怠を監せしむ。
習書寮も同所にてその作法右にならえり。

武学寮
また城代屋敷の中にあり。
日清館の武学寮にならう事前に同じ。

稲荷神社
城代屋敷の中、西北の隅にあり。
城代屋敷の東に門を開てこの社に路を通す。
佐原経連この地に居りしとき鎮護神に祭りしといえり。
鳥居拝殿あり。成就院これを司る。

門2
一は東にあり。東向き。三之丸に通す多門なり。中門(なかもん)という。番所西北に向う。側に井あり。
一は北にあり。門東にむかい道は北にさして三之丸に通す多門なり。番所東向き。側に井あり。

作事場
東南の隅にあり。

馬場
東の土居際にあり。

腰掛
中門の南にあり。

三之丸

東のかた二之丸の前より本丸の北に折廻せり。
周540間余。
水隍をめぐらせり。
内に士屋敷あり。

的場
南の土居際にあり。

門2
一は東にあり。東に向て郭外に通す。平門作なり。これを追手口とす。番所東向き。
一は北にあり。北に向て郭外に通す。また平門作なり。これを裏門という。番所北向き。

鐘楼堂
裏門の外にあり。
時守を置て昼夜の時を報せしむ。

米倉2屋
東北の隅にあり。
川東・川西両組より米を納むる所なり。




亀姫について

歴史書によれば、堀部主膳が突然死したのが寛永17年(1639年)で加藤成明が会津藩主を勤めていた頃です。
老媼茶話の「猪苗代の城化物」の記述を引用します。
寛永17年12月主膳只壱人座敷(ざしき)(あり)ける折り。いづくともなく禿(かむろ)来りて。汝久しく此城に(あり)といへども。今に此城主に御目見(おめみえ)をなさず。いそぎ身を(きよ)上下(かみしも)(ちやく)し来るべし。今日御城主御禮請(おんれいうけ)させらるべしとの上意(じやうい)也。(つつしん)で御目見可仕と云。主膳聞て禿を白眼(にらみ)。此城主は主人成明當城代は主膳也。此他に城主あるべき樣*1なし。につくきやつめと禿をしかる。禿笑て姫路(ひめち)のおさかべ姫と猪苗代の亀姫を知らざるや。汝今天運(てんうん)すでに尽果(つきはて)て又天運のあらたまる時を知らず。(みだ)りに過去を話出(はなしいだ)す。汝が命数(めいすう)もすでに尽たりと云て消失(きえうせ)たり。明る春正月元朝(ぐわんちやう)主膳諸子(しょし)拝禮(はいれい)(うけ)んとて。上下(かみしも)(ちゃく)廣間(ひろま)(いで)ければ。廣間の上段(じやうたん)新敷(あたらしき)棺桶(くわんをけ)をそなへ其(かたへ)葬禮(さうれい)()揃置(そろへおき)たり。又其夕べいつく共知れす大勢のけはいにて(もち)をつく音せり。正月18日主膳雪隠(せついん)より煩付(わづらひつき)廿日の(あかつき)(しに)たり。
Wikipediaの亀姫の記事に訳した内容が記載されているので参考になさってください。

また本文はさらにこう続きます。
其年の夏柴崎(しばさき)又左衛門といふ者。三本杉の清水(しみづ)(わき)にて7尺(ばかり)なる眞黒(まつくろ)大入道(おほにうどう)(みづ)をくむを見て(かたな)(ぬき)飛懸(とびかか)り切付しに。大入道(たちまち)行衛(ゆくへ)なく成たり。久しく(ほど)(すぎ)八ヶ森(やつがもり)に大き(なる)むじなの死骸のくされて有りしを猪苗代木地小屋(きじごや)のもの見付たり。夫より(たえ)て何のあやしき事なかりしといへり。
付近で木地小屋といえば川東組に木地小屋村があり現在の住所でいう猪苗代町大字若宮には木地小屋清水(水源)もあるのですが、木地師は時代によって住む所を転々としており、新編会津風土記が完成した寛文6年(1666年)の記載とは別な場所である可能性が高いです。

余談ですが、加藤成明は2年後の寛永16年(1639年)に病死しています。

最終更新:2021年06月24日 15:49

*1 樣(さま):最上級に相手を敬う気持ちを表した「様」の意味