この地往古は民居ありしが、100年余あれはてしを永正中(1504年~1521年)下野国の浪人関加賀某という者安達郡玉井村より郎等引具しここに来り、猪苗代の三浦氏に請て廃田をおこせしより再び民居となる。その後往還となり安達郡中山駅より山越にこの村に継ぎ、また仙道の諸村より米穀をこの所の米倉まで納めしとて、今なお彼地の者その事を語り伝う。
古文書に山潟を山方に作るものあり。
府城の東北に当り行程8里12町。
家数76軒、東西4町・南北4町。
東北に田圃をひらき南は山に傍ふ。
東1里余二本松領安積郡安子島村の山界に至る。
西10町40間湖水を限りとす。
南は二本松領安積郡浜路村に隣り
陸坂を界とす。
北19町余
壺下村の山界に至る。その村は亥(北北西)に当り33町余。
村東にもと山崎新田という端村あり。今は居を本村に移す。
この村良馬を産す。常に山中に放牧せり。
端村
上戸
本村の戌亥(北西)の方8町にあり。
家数17軒、東西2町20間・南北50間。
北は山に続き三面は田圃なり。
餉沢新田
本村の未申(南西)の方26町余にあり。
家数2軒、東西22間・南北8間。
山麓に住し西は湖辺に臨む。
山川
高森山
村より辰(東南東)の方28町余にあり。
15町余その頂に至る。
東は安子島村と峯を界ふ。
長峯山
村の巳(南南東)の方25町余にあり。
頂まで13町余。
東は安子島村と峯を界ふ。
小坂峠
端村上戸の村際より漸々に登る。
頂まで7町10間余。
ここを越えて壺下村にゆく。
田子沼
村東21町余山中にあり。
東西8町・南北5町。
極めて幽境なり。
相伝ふ。永正の頃(1504年~1521年)この里に齋多という1処女あり。田子商殿という2人の男この女に心を通じ、さるべき者をこしらえて只管に彼父にいいよりしを、齋多この沼に身を投げて死す。2人の男これを聞き悲歎に堪ず、またもろともに溺死せしとぞ。爾しより後夜のことに沼の中に相争う聲聞え常に悪風を吹き起こし種殖を害しければ、関加賀3人を神に祝い祭り歳寺の祭禮怠らざりしより斯る怪しき事もやみしという。されど今もなおこの里のみ風雨あることあり、これを村民山潟のほまち雨という。
鮒魚・川サイを産す。これをとれば霖雨の変ありとて、おそれてとらず。
加賀浜
端村餉沢新田の南の湖浜なり。
関加賀が漁猟せし所という。
釜子湊
端村上戸より西の湖辺なり。
昔舟着なりという。
浜続きの湖中に数十間大石を累子築きし塚あり。村老これを経塚とて空海請雨の祈祷せし所いい伝えど、古の舟着なれば舟寄の為に築きしと見ゆ。
会津郡橋爪組上荒井村の肝煎梅宮吉兵衛が家に蔵むる蒲生氏の文書に、戸口山方普請とありこれを築きし時の事なるべし。
これより西北の方沖に出れば三把菅とて湖中第一の深き所あり。三把の菅を結び下せども水底をしらずとてこの名ありとぞ。
前川
源を高森・長峯の2山より発し、巳(南南東)の方より戌亥(北西)の方に流れ村中を経て湖水に入る。広9尺余。境内を経ること凡1里2町。
北川
田子沼の下流なり。
端村上戸の側を経て西に流るること21町余湖水に入る。広2間計。
夫婦石
加賀浜の中にあり。また離石ともいう。
2石わかれ立り。
高1丈計。上に松樹躑躅あり。
原野
秣場3
一は村より巳午(南南東~南の間)の方10町40間にあり。東西10町・南北3町。
一は村より寅(東北東)の方25町にあり。東西6町・南北2町30間。
一は村東12町余にあり。東西16町・南北3町。
水利
堤2
一は村東13町余にあり。東西89間・南北100間。
一は村の巳(南南東)の方30間にあり。周90間余。
倉廩
米倉
村南にあり。此村の米を納む
神社
田子神社
祭神 |
齋多神? |
相殿 |
稲荷神 |
|
齋多神 |
鎮座 |
永正中? |
村東の山麓にあり。
古樹蟠蔚して神さびたり。
永正中(1504年~1521年)田子という者を祭れるはこの社なり。
鳥居あり。関脇村土屋出羽が司なり。
熊野宮
端村上戸の戌亥(北西)の方1町山腰にあり。
鳥居あり。土屋出羽これを司る。
寺院
壽徳寺
村東1町山下にあり。
縁起を案ずるに、永正中(1504年~1521年)関加賀この地にありしとき雲間より熊野本宮の牛玉飛来るを見て、随喜の余に薬師の像を彫りその牛玉を軀中に封じ1宇を創てこれを安じ時宗の徒金蔵を住持とすという。
寛永中(1624年~1645年)真言の徒秀海来り住せしより田子山壽徳寺と號し、府下台町延壽院の末山となる。寛文の頃まで(1661年~1673年)村西にあり。
本尊薬師客殿に安ず。
観音堂
村東15町山中にあり。
草建の年月詳ならず。
修験大方院これを司る。
墳墓
古墓
村南山麓にあり。
高3尺計の五輪なり。
村老いう。この後の山に昔五輪あり。後ここに移せし時一は田中に倒れて埋りしと。今存する所を関加賀墓といい伝う。文字剥落すれどもさだかに禅定尼を見ゆれば、もしくは田中に倒れしは加賀が五輪にてこの五輪はその妻の墓にや。
古蹟
館跡
村北1町にあり。
東西40間・南北22間。
永正中(1504年~1521年)関加賀居という。
旧家
関荘之助
この村の肝煎なり。
関加賀某が13代の孫なりという。
履歴詳ならず。
余談。
旧月輪村で、夕日が美しい上戸浜と安積疎水の取水口上戸頭首工があり、志田浜より49号線を郡山方面に向い上戸トンネルを抜けた先中山峠と湖南方面との分岐点となる信号があるあたりです。そのまま49号線を走ると左手に小さな鳥居が見えますが、これは大山祇神社の社です。
山潟村は上戸駅より南にの方の集落の場所あたりで、東の山の麓に田子神社が鎮座しています。
また田子沼がどこにあったのかは不明ですが、地名を見る限り新旧中山峠の分岐点である風の広場(風力発電所がある所)あたりかと思われます。
追記。
コメントで情報を頂きました。
田子沼は安積疎水開削の際に灌漑されて水田になったようです。風の広場から49号線を挟んだ反対側(
このあたり?)にあった、かもしれない、という事でした。
古地図
※地理院地図(明治41年測図/昭和6年要部修正測図)
最終更新:2025年06月29日 17:44