魚沼郡

越後国 魚沼郡
大日本地誌大系第34巻 77コマ目

この郡は、本州の東南隅にあり。
延喜式・和名鈔に載て、古き郡なれども国史に見る所なし。
続日本紀、文武天皇大寶2年(702年)に『越中国四郡を分て越後国に属する』ことあり。
この郡及び頸城・古志・三島4郡は本越中国なりしが、この時より越後国に属するにや詳に知り難し。
節用集に、魚治に作る者は誤れり。細注に沼の出せし方宜し。また頸城郡の下に『又、伊保野と曰』と注せるもこの下に移すべし。
太平記巻十二・相模入道、武蔵・上野両国の勢に新田義貞兄弟を討べき由下知せし時、義貞宗徒の一族を集めて評定有けるに、越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て上田山を伐塞ぎ勢を付てや防ぐべきという。同三十一巻笛吹峠の軍の所に、新田義宗裁田山と信濃路に(しげ)く関を居たりという。また同巻に義宗4月27日越後の津張より立て、7000余騎越中の放生津に着くと見えたるは皆この郡の事なり(上田・裁田は共に今の上田荘にて、津張郡は今の妻有荘なるべし)。
されば、この地にては専ら南朝の正朔を奉せしと見えて、正平(1346年~1370年)の年号を記せし古碑往々残れり(十日町組仁田村・小出島組江口村の条下に載す)。

今、この郡に封内付属の地300余村あり。分けて7組とす。
中央に浦佐・六日町2組あり。
東に小出島組あり。
西に十日町組あり。
南に塩沢組あり。
北に堀内・小千谷2組あり。

この地、東は陸奥国会津郡に隣り、西は本郡白河領に続き、南は上野国吾妻郡に並び、北は三島郡に界ふ。
また辰巳(南東)の方は上野国利根郡に接し、戌亥(北西)の方は刈羽郡に交わる。

東西18里32町(東は陸奥国会津郡の界枝折峠より、西は本郡白河領中屋敷村の界に至る)。
南北24里18町(南は上野国吾妻郡の界三国峠より、北は三島郡公領高梨村の界に至る)。

山多く平地少し。魚沼川・信濃川に傍て(わずか)平衍(へいえん)の諸村あり。その余は多く山間に住す。
気候は国中の諸郡に較べれば寒気強く雪尤も深し。9月中旬より諸山に雪降り、10月より末は大抵晴日少しなり。或は一昼夜に1丈余積ることあり。この時には山村は纔に樹杪(じゅびょう)を残して民屋を埋む。数日の間昼夜燈火(とうか)(とも)し隣里の往来なし。霽間(はれま)を待ち高窓より出、屋上の雪を堀り門戸を通して隣家に往来す。
花候は3月上旬の頃に梅花開き、桜は下旬の頃に開く。遅き年には4月に至て一時に開く。
農務は芒種(ぼうしゅ)の前後に早苗を取、寒露(かんろ)の頃刈収む。

習俗は村中の営作(えいさく)を助け農月力を通し、近隣に死者ある時の事また小兒死する時耳塞餅を造り、早稲登る時焼米を製し、収穫の後餅を製して田神を祭り、210日に風神を祭り、田圃(たんぼ)に虫ある時虫を送り、正月14日若木の枝に団子を飾る事は会津郡に同じ。
その異なる者は、産子或は幼年の時名を命する者を烏帽子親と称し父子の親をなす。歳首(さいしゅ)に注連飾るに八丁紙(はつちやうかみ)とて紙2枚重ねて、幅5、6分計切掛け注連に結付く。正月14日男女田植歌を唱え稲穂(いなほ)という者を製す。餅を(まる)めて小粒となし、数十粒稲稈(いなから)に貫き紙を裁て稲葉に象り、座の四面に縄を張てこれを飾る。15日村々の童部(わらべ)雪山を作りその上にて鳥を追いまた村中を廻る。
2月11日十二講(しふにこう)とて山神を祭る。男子各木を伐て小弓を造り雪を重ねて的山を築き、餅・白米・赤小豆飯を供して山神を拝して弓を射る。
7月朔日童部藁を以て小人形を作り色々の紙にて衣裳(いしょう)を製し、村々の入口或は人家の軒に縄を張りこの人形を飾り二星に供え、7日の朝水に流す。27日尾花祭(おはなまつり)とて強飯に(すすき)()添えて諸神に供し、薄の箸にて強飯を食す。

郷名

倭名鈔に出る所

  • 加禰
  • 那珂
  • 刺上
  • 千屋(ちや)
    • 今小千谷組に千谷・千谷川・小千谷の村々あり。千谷郷川という小川もあり。また浦佐組浦佐村毘沙門堂應永11年(1404年)の寄付状に『越後国千屋郡浦佐保普光寺御佛供田』とあり。また同所文明7年(1475年)・延徳3年(1491年)の古文書にも千屋郡あり。その頃は誤て郡と称せしにや。

今称する所16

  • 吉谷(よしたに)
  • 上川(かみかは)
  • 宇賀地(うかち)
  • 広瀬(ひろせ)
  • 赤石(あかいし)
  • 大巻(おほまき)
  • 大井田(おほいた)
  • 羽根川(はねかは)
  • 吉田(よした)
  • 美佐島(みさしま)
  • 番場(はんは)
  • 留実(とめさね)
  • 早川(はやかは)
    • 塩沢組大木六村龍泉院の所蔵寛政4年(1792年)の文書に、越後国上田荘早川郷北方の内并大窪名の内ということあり
  • 木六(きろく)
    • 上に出す所の龍泉院の文書に、越後国上田荘木六郷長慶庵の寄進状とあり
  • (せき)
  • 石白(いししろ)

荘名

  • 藪上(やふかみ)
    • 或は薮神に作れり
  • 上田
    • 太平記に、上田山または栽田山とあるはこの地の事を見ゆ。上田荘ということは寛政の頃(1789年~1801年)より見えたり(早川郷の下に詳なり)。
  • 妻有(つまり)
    • 太平記に津張郡とあるはこの荘の事と見ゆ

組名

  • 小千谷組
  • 十日町組
  • 塩沢組
  • 六日町組
  • 浦佐組
  • 小出島組
  • 堀内組


山川

守門山(すもんやま)

堀内組大白川新田村の北にあり。
本郡に並び少き高山にて古志・蒲原3郡に跨る。
満山岩石重畳(ちょうじょう)し風烈しく木立なし。
東北は大白川新田村に属し、西南は本郡公領高倉村に属す。

駒嶽(こまがたけ)

小出島組大湯村の南にあり。
頂まで3里余。
東北は大湯村に属し、西南は浦佐組の諸村に属す。
山勢(けわ)しく半腹より上は人跡通せず。寒気殊に烈しく熊猿の類なお棲むこと稀なり。ただ猟人冬月雪を踏て(すが)ることを得るという。
春夏の際残雪駒の形を成す。故に名けしとぞ。

八海山(はつかいやま)

※国立公文書館『新編会津風土記106』より

浦佐組大倉村の南にあり。
頂まで4里計。
東は陸奥国会津郡の諸山に続き、西南は六日町組條内谷の諸村に属し、西北は浦佐組の諸村に属す。
山上に8の池あり。因て名く。
絶頂は鋸歯(きょし)の如く凡6の峯あり。
頂よりすこし下に八海明神の祠あり。八月朔日、遠近より参詣する者すくなからず。その夜山の半腹に数万(てん)の火、星の如く見ゆ。これ龍王の献する燈なりという。
また胎内潜(たいないくくり)とて数丈の岩洞あり。
半山より上は盛夏にも雪をふみ見なれぬ艸木(くさき)多く、猿嘯(えんしょう)の聲幽谷(ゆうこく)に聞こえ、雲霧の陰晴(いんせい)常ならず物すごき地なり。
頂はますます嶮難(けんなん)にて絶壁峭立(しょうりつ)し、天気晴明の時には眺望尤も佳なり。
西南に信州の戸隠・浅間の2山を臨み、西北は本州の諸郡を一矚(いつしょく)し、佐渡・能登の沖まで遥かに烟の中に見ゆるという。(かか)る高山なれば、船舶の往来に中嶽・駒嶽とこの山を併せて三本嶽と唱え標準とするとぞ。
浦佐組大倉村・大崎村及び六日町組山口村3方より通路あり。

中嶽(なかがたけ)

八海山の東北に並び数山の奥にあり。
八海山よりやや高しという。
水無川の源にて、人跡至ること稀に金山の景象(けいしょう)を知る者少なし。
支峯連出して左右に環拱せり。

中俣山(なかのまたやま)

六日町組清水瀬村の東にあり。
清水瀬・土沢・野中・舞台・畔地・畔地新田6ヶ村に属す。
頂には大木なく小篠(こざさ)多く生す。
数山の奥にある高山にて黄連(おうれん)を採る者のみこの山に到るという。
遥の山奥に曠原(こうげん)あり。その中に大なる沼見ゆ。これ奥州の小瀬沼なるべしという。
この山の辺、上州・奧州と接界の所より流れ出る川を三国川(みくにかわ)という。

金城山(きんしやうやま)

塩沢組雲洞村の東南にあり。
西は雲洞村・長崎村に属し、東は六日町組中川村に属す。
山中に大さ100人計受べき岩窟あり。中に薬師の像を安じ、毎歳6月朔日参詣する者あり。

大烏帽子山(おほえほしやま)

同組早川村の枝村清水の南にあり。
支峯多く高山なり。
登川これより出、山中に馬峠とて上野国利根郡湯檜曽村に出る路あり。
東南は利根郡藤原村・湯檜曽村の山に連なり、西は土樽村の山に続き、北は清水と滝谷村とに属す。

大現太山(たいけんたやま)

同組土樽村の巳(南南東)の方にあり。
土樽村・浅貝村・早川村の枝村清水に属し、上野国利根郡の山に連なる。
山中の渓水、大現太川という。小川となり魚沼川に入る。

苗場山(なへはやま)

同組三俣村の西にあり。
三俣村・二居村・浅貝村に属す。
三俣村より9里計山奥にある高山にて、盛夏も雪あり。
人跡至て稀なり。
信・越接界の所に近しという。

魚沼川(いおのかわ)

源は塩沢組土樽村の奥、砂峯山(すなのみねやま)より出て、大現太川を受け中野村の北にて串川(くしかわ)流入る。大里村の北にて登川(のほりかわ)来り注ぎ、西泉田村より六日町組に入る。二日町村の北にて五十沢川(いかさはかわ)三国川(みくにかわ)と会し、下原新田村の西にて宇田沢川(うたさはかわ)来り注ぎ、麓村より浦佐組に入る。岡新田村の西にて水無川来り注ぎ、虫野村の西にて三用川(みよかわ)を受け、青島村より小出島組に入る。四日町村の西にて阿布留麻川と会し堀内組に入る。小屋村(小出島組)の境内を経て田川を受け、和南津村より屈曲して本郡公領の地に入る。川口村にて信濃川に入る。
広80間計。
大抵南より北に流る。
岩魚(いはな)(やまめ)杜父魚(かしか)(はえ)(ます)(さけ)年魚(あゆ)を産す。
六日町組六日町村まで船上る。下船は1日にて六日町より長岡に達し、上船は夏月は5、6日・冬月は20日計にて漸上る。

信濃川(千曲川(ちくまかわ)

※国立公文書館『新編会津風土記106』より

源は信州の筑摩川・犀川なり。
丹波島の辺まで一となり、本郡公領の地に入る。小黒沢村より十日町組に入る。高山村の南にて川治川(かはちかわ)流入る。四日町村の西にて田川(たかわ)来り注ぎ、中條村の北にて飛渡川(とひたりかわ)を受け小千谷組に入る。岩沢村より屈曲して堀内組との間を流れ、また本郡公領に入る。魚沼川と合し牛島村よりまた小千谷組に入る。千谷村の東にて千谷郷川流入る。三佛生村より古志郡に入る。
広100間計。
河原広く水常に濁れり。
大抵南より北に流る。
十日町村より水上まで船上る。
産魚は(さけ)(ます)(ふな)年魚(あゆ)八目鰻鱺(やつめうなき)


原野

八色原(やいろはら)

浦佐組魚沼川の東にあり。
東西1里・南北2里。
瘠薄の地にて、沙石多く田圃(たんぼ)墾発し難く、曠平の芝原なり。
20余区の村落に分ち属す。
水無川原中を西に流る。

土産

縮布(ちちみ ふ)

諸組より出つ。
苧麻(からむし)を績でこれを織る。皺ありて(ちりめん)の如く軽薄なること蝉羽に似たり。柳條(しま)かすりその品多く好品なり。尤も精き者は鳥獣花弁の模様、光彩目に耀く。
その始は寛文の頃(1661年~1673年)播州明石より竹屋某という者この地に来て織出す。今は次第に広まり郡中の婦女紡績せざる者なし。
年々八十八夜過ぎより7月の頃まで小千谷・十日町・堀内にて縮布市あり。京師・江戸・諸州の商人多く集り交易す。
国中第一の産物なり。




最終更新:2020年11月29日 22:27