半兵衛町

「半兵衛町」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

半兵衛町 - (2020/03/01 (日) 02:03:16) の編集履歴(バックアップ)


若松 郭外 半兵衛(はんひやうえ)
大日本地誌大系第30巻 181コマ目

※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より

外郭の西北、融通寺町の西に通す。
数条の士屋敷あり。
この地蒲生家の臣岡半兵衛という者の装束屋敷ありし(ゆえ)この邊の総称となれり。
外に新丁・横丁・中河原町とて小黒川分の民居あり(半兵衛が伝、極楽寺の条下に載す)。

烏橋(からすばし)

東は新丁の末に続き、西は烏橋の詰に至る。
長1町40間・幅3間余、家数11軒。西を黒川流る。
川に傍て北の方組町に出る小路あり。

烏橋

黒川に架す。
長20間・幅3間、勾欄あり。
この橋を経て柳原組町に行く。


水主(かこ)

烏橋通の北に並び、東西の通2条あり。
南を一番丁とす。東は新丁通より西は黒川の岸まで。長2町57間余・幅3間、家数22軒。
北を二番丁とす。東は新丁通より末は組町に続く。長1町44間・幅3間、家数9軒。
岡半兵衛が水主の者を置し処(ゆえ)この名あり。


(よこ)丁通

前の2条の通の中ころに南北の通あり。
南は烏橋通より北は組町に続く。
長2町9間余・幅2間余、家数20軒(末の方8軒は組町の地に住す)。
西頬に行留の小路あり。家数4軒、組屋敷なり。

(しん)丁通

極楽寺北通より南に折れ屈曲して新丁に出る小路なり。
長2町10軒余(この通みな東西の丁の裏行なり)。

寺院

極楽寺

この小路の西頬にあり。
浄土宗本州岩城郡郡山崎専称寺の末寺なり。菩提山と號す。
慶長13年(1608年)大聽という僧草創せり。大聽もと岩城郡の産なり。早歳釈門に入り鎭西善導が法流を汲み、出羽国米沢極楽寺に住して大いに僧徒を集め法幢(ほうどう)を建て法威を一宗に奪い妙譽を遠近に()すと云えり。後居を本郡に卜せんとす時に岡半兵衛大聽と旧好あり、因て為に地を領主に請てこの寺を開き旧號を用いて極楽寺と称す。
三尊弥陀を本尊とし庫裏に安ず。

五輪
一基。境内にあり。高1丈計。
『江寒石照大禪定門慶長十八年丑十二月八日』と彫付けあり(慶長18年=1613年)。岡半兵衛重政が墓なり。
重政は蒲生家の臣にて越後国蒲原郡小川荘燒山の館に住し3万3千石を領し、この辺に装束屋敷ありて常に騎馬の者70人を置きしとぞ。後慶長18年(1613年)罪ありて駿府に召され、遂に彼地にて戮せらる。如何なる罪状にかその故を知るものなり(武徳編年慶長19年の記*1には『重政津川の城にありしに忠郷母堂の命に背き外池信濃良重と彼地を引くよし駿府に聞こえ五月十日蒲生五郎兵衛郷春に津川の城を賜はりし』と見ゆ)。

初め半兵衛燒山の館を修理せんとて暫くこの装束屋敷に移り居しが、日毎に人をも倶せず何くともなく出て行き日暮れに帰りし。その体甚だ興に入しかば妻怪で人をして窺い見せしむるに、高久組神指村なる如来堂の林中に至てその行方を失いしという。妻(いよいよ)怪み、半兵衛が帰りをまちその(ゆえ)を詰り問いしに半兵衛笑って言う。吾先に神指村の如来堂に至るに深く林の中に笑語の聲聞こえしかば、不審に思って伺い行くに女兒8、9人計なみ居て酒及かわせしが吾名を呼びて挫に伴い酒肴を進めて餐しぬ。日暮れ酒闌に及びて今は帰りなんと云うを衣裾にすがりて止めしかば又の日を約して帰れり。後その興忘るること能わず日毎に彼処に行て遊ぶなりと語る。妻熟々聞いて(なお)不審晴れず、人をして行て見せしむるに(ただ)堂中古額一版あり。女兒の遊せる図なりという。妻聞て(さて)こそと思い人を馳て件の額を取りかくせり。その後半兵衛彼の所に至り先の女を(もと)めるに蹟形もなかりしとぞ。人々始めてその怪異を覺れり。後幾くもなくして戮に就けりという。
彼額画者を詳にせざれども妙手の筆する処なりとて、近き頃まで後分町圓福寺に納め置きしが災に罹りて失せしとぞ。



新丁

小黒川分の民居にて融通寺町の南端より西に行く通なり。
長59間・幅3間、家数20軒。
末は半兵衛町烏橋に続く(即小黒川分の地なり)。


横丁

また小黒川分の民居にて新丁より南に折れて中河原町に行く通なり。
長1町50間・幅3間計、家数30軒(即小黒川分の地なり)。


(ふくろ)

横丁の中程より西に折れ斜に北に廻り末は烏橋の詰に至る。
昔は行留りの小路なりし(ゆえ)この名あり。
長1町27間・幅9尺余、家数27軒。
(士屋敷組屋敷小黒川分地雑れり)


中河原(なかかはら)

小黒川分の民居にて河原町口の郭門を出て西の方の大橋の詰に至る。
長50間余・幅5間、家数5軒(即小黒川分の地なり)







余談。
岡半兵衛重政は蒲生家の家臣でした。
秀行が30歳の若さで亡くなった後蒲生家を継いだのは10歳の忠郷で母親の振姫が後見人となりました。
半兵衛は当時藩政を任されていたのですが、振姫とは仲が悪かったそうです。話は徳川家康(振姫は家康の娘)まで届いてしまい仲裁が入るほどに。それでも抗争は収まらず最後は半兵衛が駿府に呼ばれて死罪を命じられる事になりました。
強い女性には色々と欝憤が貯まっていたのではないでしょうか。