小黒川分

若松 町分 西黒川 小黒川(こくろかは)
大日本地誌大系第30巻 192コマ目

下町の西にあり。
地面、東西13町21間・南北24町55間。

南は材木町分に交わり、北は高久組藤室村に連なり、西は高久組東城戸村に続く。

民居凡て260軒あり。

穢多町の西、黒川の東岸に家数5軒あり。
東西28軒余・南北22軒。
柳橋の側に住する(ゆえ)俗に橋本(はしもと)と称す。

ここより未申(南西)の方4町10軒余に家数7軒あり。
東西31間・南北44間余、三屋(みつや)という。

大和町の末より戌亥(北西)の方に家数5軒あり。
東西1町15間・南北7間余、若岡(わかおか)と唱ふ。

その余は市中に雑居す(各その条下に付す)。

薬師堂河原

柳橋の西北にあり。
東西39間・南北21間。
旧この地に薬師堂あり故に名とす。
寛永15年(1638年)後分(このふん)町圓福寺に移す。

黒川

府下半兵衛町の界より来り、この地の西の方を斜に西北の方に流るること21町40間余、高久組平沢村の境内に入る。

柳橋

橋本の側、越後街道黒川に架す。
長17間余、勾欄あり。
橋邊に柳樹多し(ゆえ)に柳橋と称す。

黒川堰

府下後町(うしろまち)の地より来り田地に灌ぎ高久組上荒久田村の方に注ぐ。

中明堰(なかのみやうせき)

地面の西の方にて黒川を引き田地の養水となし高久組藤室村の方に注ぐ。

平沢堰(ひらさはせき)

地面の西北の方にて黒川を引き田地を潤し達磨分の地を経て高久組平沢村の方に注ぐ。

刑伐場

越後街道の北、薬師堂河原にあり。
加藤氏就封のころまで郭の南黒川の邊にありしが後にここに移せりという。

切支丹塚

薬師堂河原の東にあり。
相伝う。寛永12年(1635年)耶蘇(やそ)の徒*1横澤丹波(何人なる事を詳にせず)という者及びその族を捕らえ、この地に出し高く倒に懸るに皆2日を経たずして死す。この時丹波が宅の壁中に隠れ居し伴天連をも索出し、同じく倒に懸るに17日を経て死しぬ。同じ頃穢多町の側に小屋を設けて壁を作す。多くの癩人(らいにん)*2の耶蘇となれる者を置き風霜に曝して殺す。その後彼死人を同穴に埋めてこの塚を築くという。