この村の民居昔は処々の山間に散居せしを、小倉山館を築きし時田圃の中なる平衍の地に民居を定め中地村と名くとぞ。
府城の東に当り行程7里16町余。
家数87軒、東西3町58間・南北1町10間。
村中を中地川流れ四方田圃なり。
村東に1里塚あり。
この村は仙道に通る街道の駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
三代村駅より20町24間ここに継ぎ、ここより3里32町寺山領守屋村駅に継ぐ。
また村中より北に分れて二本松領に通る街道あり。18町、二本松領舟津村に継ぐ。
辰(東南東)の方1里33町寺山領に界ひ諏訪峠を限りとす。
西20町余舟津村に界ひ
袴腰山の峯を限りとす。
南4町52間余二本松領浅野村に界ふ。
北1町18間舟津村に界ふ。
また未(南南西)の方11町2間
三代村の界に至る。その村まで18町40間余。
小名
岩崎
本村より申(西南西)の方7町にあり。
家数3軒、東西10間・南北39間。
西は山に倚り東は田圃なり。
山川
諏訪峠
村より辰(東南東)の方1里13町にあり。
麓より頂まで20町。
昔絶頂に諏訪の神社あり。因て斯く唱ふ。
仙道に通る街道にて、曲折して東に登る坂なり。
守山領と界ひ絶頂を限りとす。
笠森山
諏訪峠の南にあり。
東南は守山領に属す。
){山脉}綿亘して西北に連なり百目貫山に続く。
峯を限り二本松領浅野村に界ふ。
百目貫山
村より巳(南南東)の方5町にあり。
雑木多し。
峯を限り浅野村に界ふ。
高石山
諏訪峠の北にあり。
東北に続いて櫛峯あり。
東は守山領に属し峯を限りとす。
中地川
笠森山の麓より発し、西北に流て村より4町計東にて日山沢川東北より来てこれに会し、西流して村南にて浅野川南より来てこれに注ぎ、また西流して村中を過ぎ西北に流て二本松領舟津村の界に入る。
大凡この村の境内を経る事2里2町余。広20間。
この川夏に至るごとに村東45町より地中を伏流して、村西1真理計に至て流れ出つ。
日山沢川
源は櫛峯より発し、斜に山足を廻て西北に流れまた西南に転じ、大凡1里31町余中地川に入る。
広10間。
三代川
村西6町余にあり。
三代村の境内より来り、北に流るること21町二本松領舟津村の界に入る。
広6間。
関梁
中地口
村中、仙道に通る街道にあり。
木戸門を設け番戍を置き往来を察せしむ。
橋2
一は村中、仙道に通る街道にあり。長6間、中地川に架す土橋なり。
一は村西7町、村中の通路にあり。長8間、三代川に架す丸木橋なり。
神社
小倉神社
祭神 |
宇摩志麻治命 |
鎮座 |
不明 |
村の西北、小倉山館跡にあり。
鳥居あり。赤津村真船奥守が司なり。
伊勢宮
祭神 |
伊勢宮? |
相殿 |
山神 |
|
天王神 |
|
愛宕神 |
|
羽黒神 |
鎮座 |
不明 |
境内にあり。
諏訪神社
村北3町にあり。
伝て言う、源義家朝臣の勧請なりと。
もと諏訪峠の頂にありしが、伊藤氏小倉山館を築きし時、この地鬼門に当れるとて鎮護の為移せりとぞ。
鳥居あり。東光寺これを司る。
八幡宮
村西1町にあり。
鳥居あり。三代村修験寶蔵院これを司る。
寺院
満福寺
村西8町、山麓にあり。
本中岩瀬郡長沼村永泉寺の末寺曹洞宗なり。
永正14年(1517年)月宮という僧草創して、観音を安置し金蔵山満福寺と名く。
また鐘1口あり。径2尺1寸、元禄5年(1692年)8世笠翁が時に鑄る。
熊野宮
境内にあり。
鳥居あり。
阿弥陀堂
村北にあり。
4間四面、南向き。
天喜中(1053年〜1058年)源頼家朝臣東征の時、暫し賊鋒の鋭を避て三森峠という所に屯し佛神の加護を祈誓せられしに、賊兵忽ち潰散せしかば、凱旋の日1宇の堂を建立し長1丈なる坐像の弥陀を安置せられしという。
この堂もと村より30町計東の山中にあり(遺趾に旧礎なお存す)。寛文中(1661年~1673年)肥後守正之ここに移して再営す。
8月朔日より同3日まで恒例の会式あり。
別当 東光寺
本堂の西にあり。
何頃にかこの村の領主伊藤氏、阿弥陀堂を修補し併せて1宇の草菴を営て別当となし、小倉山館の東に当ればとて小倉山東光寺と名けしとぞ。
元禄2年(1689年)より真言宗江戸
弥勒寺に隷す。
古蹟
小倉山館跡
村の西北隅、小山の上にあり。
一に鶴島城と唱ふ。
東西48間・南北21間。
南は中地川繞り三面に堀形存し、東の方平地続きに出丸の跡あり。
何の頃築きしにか詳ならず。
伊藤氏代々の居城にて、天正の頃(1573年~1593年)薩摩守盛恒という者住す。
この辺多く伊藤氏の所領なりしにや。
天正の頃まで支族処々に基布し、各地名を以て称せしとぞ(横沢彦三郎・赤津弾正が類これなり)。因て今に伊藤氏の居趾処々に残れり。
伊藤氏の世系事蹟詳ならず。村老の伝うる所は、盛恒天正17年(1589年)横沢彦三郎が為にこの所を攻落されて福良村に奔り、再び横沢と戦い遂に討死すという。(四家合考に横沢彦三郎という者、磨上の役に赴んとて中地某を誘しに彼その言に従ざりしかば、軍散して後横沢竊に湖上より己が在所に引帰し、急に手勢を卒て中地が館を攻落せし事見ゆるは盛恒の事なるべし)
また福良村千手院所蔵の盛恒が影像の書付には、天正18年(1590年)蒲生氏郷に従て大崎に赴き、11月19日名生城にて力戦して死せし由見ゆ。
2説孰れが是なることを知らず。
またここより4町計西の田畝の中に盛恒が先祖の墓なりとて古き石塔1基あり。
- 参考
- Google Map
- 小倉城(さくらとおしろ)
余談。
宇摩志麻治命(宇摩志麻遅命とも)は
物部氏、
穂積氏、
采女氏の祖とされる人物だそうです。いずれも大和国(奈良県)の豪族で祭祀を司っていいた方々です。
石見国(島根県)にある
物部神社の主祭神もこの神様です。
大国主神
┗
事代主神
┗
邇芸速日命
┗宇摩志麻治命
参考:
Wikipedia
余談2。
ぐるっと湖南伝承会の冊子に白妙姫の伝承が記載されていたので引用します。
薄運の白妙姫
天正17年(1589)、湖南の領主であった戦国大名・会津芦名は侵攻してきた伊達政宗と猪苗代湖北の磐梯山麓で合戦して大敗、湖南・中地の小倉城主伊藤盛恒は領主葦名義広と共に、義広の生家である関東の水戸・佐竹家を目指して逃れました。
こうして小倉城は落城しました。このとき、内室・蔀御前は小櫃の村里へ逃げ無事だったのですが、無理がたたって35歳の若さで病死してしまいました。
盛恒と蔀御前には一人娘の白妙姫がおりました。姫は父を追ってともに戦おうと会津の黒川(のちの若松)へ向かったが、父はすでにその会津を脱出した後でした。
その後、姫はのちの会津領主蒲生家の養女となり渡辺氏綱という家来へ嫁ぎ一子を儲けましたが、夫に先立たれ自らも幼子を残し26歳の若され生涯を閉じてしまいました。
その子孫は、会津盆地の塩川在郷で中地姓を名乗っているようです。
最終更新:2020年10月06日 21:53