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陸奥国 若松 郭外 下町 七日(なぬが)
大日本地誌大系第30巻 156コマ目
幕末会津若松城下地図 - 会津若松市/デジタルアーカイブ

北小路町の北に並び、大町札辻より西に往く通にて越後・出羽両国に通る街道なり。旅籠屋多し。
長7町16間・幅4間、家数149軒。

西に小黒川分の民家連なる七日町四谷という。
長1町12間・幅3間余、家数20軒(即小黒川分の地なり)。

町末より8町1間、高久組高瀬村に界す。
また、この町の末より北小路町に出る小路あり。

寺院

常光寺

この町の北頬にあり。
山號を松林山といい比叡山南光坊の末寺天台宗なり。
開基の初詳ならず。(舊事雑考に永和4年(1378年)黒川浄光寺建と記し当寺の事なるべしと伝えり)
初は律宗なりしが後真言宗となる。
元和年中(1615年~1624年)成秀という僧また台家となり僧正天海に謁して叡山の直末となる。因て成秀を中興とす。
本尊弥陀客殿に安ず。成秀護持の像にて古物なり。

寶物

元三大師像 一躯
尊敬法親王寄付。長1尺2寸の座像なり。
如意輪観音像 一躯
行基作といい伝う。長2尺5寸5分。
不動像 一躯
日光山大楽院寄付なり。長1尺6寸5分。
僧正天海文書 一通
直末免許の狀なり。其の文如左。
會津黒川今號若松常光寺雖為大乗律近年紛亂之間属舊規度之由就訴訟稱山門直末自今以後彌以御門流之顕密相續不可有怠慢之旨宜令承知者也
  元和九癸亥年四月廿四日
         山門探題大僧正天海 判
※元和九年=1623年

吉祥院

この町の北頬にあり。
博労町自在院の末寺真言宗なり。長命山と號す。
越後国の僧弘信という者この地に来り慶長6年(1601年)この寺を建つ。
本尊地蔵客殿に安ず。

地蔵堂

境内にあり。
地蔵像、長1尺7寸。また外に1尺5寸の地蔵あり。
この像もと当寺の西に堂を建てその内に安ず。何の頃にか廃してここに移せり。共に古物なり。

阿弥陀寺

この町より北小路に通ずる小路にあり。
正覺山と號す。下野国真壁郡大澤圓通寺の末寺浄土宗なり。
開基の僧を良然といい、真壁郡の産にて本州安積郡郡山無善通寺に住し、疾あるにより療治の為会津に来り数年寓居せり。
蒲生秀行の家臣倉垣某という者、会て良然と方外の知己なりし(ゆえ)秀行に請て慶長8年(1603年)にこの地に開けり。その時倉田某近江国より来りこの郷に家居せしが資財を出してこれを助く。佛殿衆寮方丈小院巨麗にしてみな備れし。これに於いて圓通寺の末山となり、元和4年(1618年)龍象*1130余員を集て大法会を設く。4月より7月まで法問を修行す。
今に至るまで相伝て浄門の盛事とす。
良然後に見性寺を開いて隠居せり。その後当寺火災に燒亡し佛殿衆寮旧の如くならず。唯弥陀の霊像のみ伝て客殿に安ず。良然護持の物という。

稲荷神社

境内にあり。

観音堂

同上。

供養塔

2基。共に境内西北の隅にあり。
1基は「奉納大乗経一万部所慶長九庚辰年新寺成就」と彫り、また中程に祐の字を()る。
1基は「奉納大乗経五千部所慶長九庚辰年七月二十五日庫裏成就」と彫り、また中程に心の字を鐫れり。
一之町倉田蔵之丞が先祖新右衛門為實夫婦の為に建しものなり。
(※慶長九年(=1604年)の干支は"甲辰")

この東に元和九年(1623年)の五輪二基並べり。文字文明ならず。
為實の子新右衛門為充夫婦の墓なりという(一之町の条下と併見るべし)。


外部リンク等


余談

  • 阿弥陀寺から通り(七日町・北小路町の両通り)に出た東側に木戸が設置されていた。
  • 地蔵堂の境内には松尾芭蕉の句碑が立てられている。
  • 阿弥陀寺には元新選組の藤田五郎(斎藤一)の墓がある。

若松緑高名五幅対

江戸時代末期の嘉永5年(1852年)に作られた会津若松の“番付表”の一種。
当時は若松城下を中心に、その地域で人気のあるもの・こと・人物・名所・産物・職人・商家などをジャンルごとにベスト5としてまとめたもの。
※[会津若松市]デジタルアーカイブより

現存する店の名前が載っていたりしますので、興味のある方はご覧になってください。
最終更新:2026年01月15日 22:10

*1 高徳のすぐれた人物を龍と象にたとえたことば