会津郡高久組高瀬村

陸奥国 会津郡 高久組 高瀬村
大日本地誌大系第31巻 29コマ目

昔、村東に川あり。石高く流れ急なる(ゆえ)に高瀬村と名けりという。

府城の北西に当り行程30町余。
家数38軒、東西52間・南北2町32間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東3町44間平沢村の界に至る。その村まで8町30間余。
西3町54間神指村に隣りその村際を界とす。
南6町天満村の界に至る。その村まで10町40間余。
北4町神指村に界ふ。
また
丑寅(北東)の方4町10間中地村の界に至る。その村まで8町30間。
辰巳(南東)の方6町6間東城戸村の界に至る。その村まで7町40間。

端村

新田

本村の東2町にあり。
家数22軒、東西42間・南北2町14間。
越後街道の左右に住し四方田圃(たんぼ)なり。

山川

黒川

端村新田の丑(北北東)の方3町30間にあり。
平沢村の境内より北に流るること1町計また平沢村の界に入る。

応湖川(おほこかわ)

村の辰巳(南東)の方5町30間にあり。
天満村の境内より来り、北に流るること5町平沢村の界に入る。
広6間。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 稲荷神 2座
   伊勢宮
   明神
鎮座 不明
村中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり

寺院

観音堂

村中にあり。
2間四面東向。
観音立像、長4尺5寸、作者を知らず。
相伝う。承安(1171年~1175年)安元(1175年~1177年)の頃本州の金売吉次・吉内・吉六という者常に都鄙(とひ)*1の間に往来し、ここを過ぎ村東の川を渡りしに水(にわか)に漲り舟(たちま)ち壊れ吉六溺死せり。その冥福を祈らん為この堂を草立し黄金を観音の躯中に納め後来修理の用に備えしに、永禄(1558年~1570年)元亀(1570年~1573年)の頃住僧像を破り金を盗みさりしという。
会津三十三所順禮の一なり。

別当 福昌寺

境内にあり。
吉高山と号す。
本郡南青木組北青木村恵倫寺の末寺曹洞宗なり。
開基の年代詳ならず。
金売吉六・吉高が位牌なりとて『福昌寺殿源宗了淵居士 承安二辰天三月二十日』と記せるあり(承安2年壬辰=1172年)。
永禄7年(1564年)道谷という僧再興せり。
本尊薬師客殿に安ず。

石塔

境内にあり。
高3尺。『當寺開基福昌寺殿源宗了淵大居士 承安二壬辰天三月二十日』と彫付あり。
金売吉六の墓なりという。
後人の建しものと見ゆ。

古蹟

革袋田(かはふくろた)

村南にある字なり。
この村より卯辰(東~東南東の間)の方1町に葛籠田(つづらた)という字あり。
昔、吉六溺死せし時黄金を入れし革袋及び葛籠等の漂流せしを得し所(ゆえ)この名遺るという。




余談1:神指城跡

この付近には神指城の古跡がいくつか残されています。
慶長5年(1600)会津領主上杉景勝は、鶴ヶ城の立地が山に近いことを危惧し、周囲が開けていて大川の水を利用できる神指原(こうざしはら)の地に築城を始めました。
しかし、この築城工事が徳川家康に上杉征伐の口実を与え、数ヵ月後の6月10日、家康の会津征伐が間近に迫ったことから工事は中止。神指城は工事途中のまま残され幻の城となりました。
面積は鶴ヶ城の約2倍の55ha。完成すれば奥州を代表する巨大城郭が出現するはずだった神指城ですが、現在では二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。
参照:神指城跡 - 会津若松観光ナビ

追記:高瀬の大ケヤキについて
福島県巨木ランキングについてお知らせします」(福島県)の記述を一部引用します。
天喜3年(1055年)、源義家が安倍追討にあたって戦勝を祈り、この木を神木として樹下に社殿を立て、八幡神社を勧請したという。また、この木は、慶長年間(1596年~1615年)に上杉景勝が築城した神指城の東南隅にある。水田の中の小高い丘に悠然と立ち、古い歴史と雄大な樹形は、生物の巨人的感慨を人々に与える。
この木を見て源義家が八幡神社を勧請した話は、風土記本文に特に記載もないので眉唾かもしれません。
そもそも安倍追討は前九年の役(1050~1062年)であり、主戦場は岩手県で、天喜3年(1055年)時点の朝廷側の総大将は源頼義(~天喜4年(1056年)まで陸奥守。頼義の前任は藤原登任)です。
ちなみに天喜の頃に義家が戦勝を祈祷したとされる寺社や大木は東日本の各地に点在しています。

余談2:金売兄弟について

金売兄弟の墓は白河市にも伝わっています。
金を入れた革袋とか葛籠とか、似たようなエピソードが残っているようです。
追記:栃木県壬生町にも金売り吉次の墓があるんですね。
最終更新:2025年07月09日 16:49

*1 都と田舎