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郭外 > 下町 > 融通寺町

陸奥国 若松 郭外 下町 融通寺(ゆつうじ)
大日本地誌大系第30巻 161コマ目
幕末会津若松城下地図 - 会津若松市/デジタルアーカイブ

融通寺町口の郭門を出て北にゆく通なり。末は西名子屋に続く。
長3町9間余・幅4間、家数94軒。

そのかみ今の大町融通寺この地に在し(ゆえ)町名となれり。
町の中程より南の方に半兵衛町に出る小路あり。

寺院

城安寺

この町の西頬にあり。
融通寺の末寺浄土宗なり。小舘山と號す。即、融通寺の旧地なり。
文禄元年(1593年)融通寺の僧文譽大町に移りしとき、その徒弟をして住せしめ城安寺と名け、相続て今に至る。
本尊弥陀客殿に安ず。
(融通寺の条下に照し見るべし)

観音堂

境内にあり。

稲荷神社

同上。

寶物

幽霊掛軸 一軸
蒲生秀行の乳母の像なりという。その頃はこの寺に住持もなく、覺夢という道心者住しけるが彼乳母ゆかりやありけん。兼て身後の事を託しおけり。然るに乳母(そしり)(あつ)て秀行の母堂に罪を得、刃に罹て死せしかば遺言に任せてこの寺に葬りしに、妄執()れざりしにや。
この女の幽霊昼夜となく寺中に現はる。因て絵師をして画せしめしという。
今もこの画を見るものは必(わざわい)ありとて(みだ)りに見ること許さず。
大般若経 一巻
光明皇后の御筆という。官醫(かんい)松本善甫寄付なり。

旧家

久右衛門

この町に住める蝋燭掛なり。
先祖を星久右衛門宗義といい、慶長6年(1601年)蒲生家再封の時商家一軒の諸役を免除せられしより世々ここに住し、相続て7世の久右衛門義章に至るという。
家に蒲生家の文書の写あり。
左に載す。
當町蝋燭掛三拾人之事如前々町諸役被成御免候條有其心得可被申聞恐々謹言
             町野左近助 判
  後霜月廿八日     岡半兵衛尉 判
      河野九朗左衛門殿
      石岡所左衛門殿
          御宿所

参照・補足


外部リンク等

最終更新:2026年01月18日 22:38
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