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郭外 > 小田町 > 極楽寺前通

陸奥国 若松 郭外 小田町 極楽寺前(ごくらくじまへ)
大日本地誌大系第30巻 170コマ目
※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記20』より

小田町の東端より北に折れ末は徒町浄光寺前通に続く。
長1町余・幅3間、家数22軒。
(千石町分の地なり)

寺院

極楽寺

この通の西頬にあり。
京師西本願寺の末山、浄土真宗なり。
永禄7年(1564年)浄顯という僧本願寺に至り寺號と本尊とを請受けて、帰て地を領主に請て当寺を開く。
本尊弥陀、客殿に安ず。

寶物

六字名號 二幅
一幅は親鸞筆。
一幅は蓮如筆。
親鸞影像 一幅
『元和七辛酉曆九月廿日奥州會津若松古河極樂寺常住物釋昌誓』と裏書あり。
蓮如影像 一幅
裏書同上。
蓮如墜歯 一枚
相伝て。開山浄顯、初め本願寺蓮如に師とし事ふ。
明應8年(1499年)蓮如死に臨で親鸞筆と自ら書せし所の六字名號に己が墜歯一枚を加て付与せり。
これに於て浄顯奉して會津に来り、永禄7年(1564年)当寺を開き別堂を建てこの墜歯を安ずという。
今玉塔の如きものを造て納む。『蓮如上人御齒明應八己未年三月上旬釋浄顯』と刻めり。
太鼓 一箇
昔時より伝る所にて究て古物なり。

浄光寺

この通りの東頬にあり。
甲斐国身延山久遠寺の末山法華宗なり。
もと信州*1高遠にあり妙法山長遠寺と號せり。
寛永12年(1635年)肥後守正之実母神尾氏卒して当寺に葬り、時の住持日遵をして導師たらしめ即法謚して浄光院殿法紹日惠という。
肥後守正之羽州*2最上に移封の時日遵をして彼地に移らしめ一精舎を営み号して法紹山浄光寺という。(ゆえ)に日遵を以て当寺の開山とす。
寛永20年癸未(1643年)2世日陽この地に来り城南の資に住せりという(今その所を詳にせず)。
萬治3年(1660年)3世日然今の地に移れり。世々寺領100石を付す。

制札

門外南にあり

総門

2間半に2間、西向。

外繋

門を入て左にあり2間に1間半。

客殿

9間半に8間、西向。大曼荼羅を本尊とす。

書院

客殿の東にあり。9間に3間半。

庫裏

客殿の北にあり。9間に7間半。

霊屋

客殿の南より12間の廊下を経てここに至る。
3間半四面、当家の位牌を安ず。

妙隆寺

総門を入て左にあり。7間四面。当寺の塔頭なり。

釈迦堂

境内の西方にて一構の所なり。
堂3間四面。四方に庇縁あり。

三十番神社

釈迦堂の東南にあり。3間四面。

寶物

貝多羅葉 一枚
寛永の頃(1624年~1645年)石橋加兵衛という者漂流して西域に至り、後諸縁についてこの貝葉を贈りしを家士某か方に転送せり。その後肥後守正容を誕せし栄寿院に献せしかば当寺に納て寺宝とす。
長7寸・幅2寸計。蛮字にて両面に経文を彫れり。
日蓮真筆 一幅
草書にて『滅是法性滅釋迦多寶(一字虫喰)』生死の数字を書す。

称名寺

浄光寺の南に並べり。
徒町法林寺末寺浄土宗なり。山號を一行山という。
慶長年中(1596年~1615年)の草創なり。
この地昔は法林寺の墓地なりしが、本山に従事せし沙門教譽という者開けり。
本尊弥陀、客殿に安ず。

観音堂

境内にあり。


外部リンク等


余談

  • 浄光寺(日蓮宗)の境内にある三十番神社とは、他の神社とは違い法華経を守護する三十柱(1日~30日までを日替わりで守護する神々)を一社に合祀したもの
最終更新:2026年01月25日 21:56
添付ファイル

*1 信濃国。現在の長野県

*2 出羽国。現在の山形県と秋田県