小田町河原新丁の末に続き、黒川の北に傍て西の方大橋の詰に至る。
長3町40間余・幅3間、家数21軒。
中頃に僅の裏通あり。
東西の端よりこの丁に出つ。その形鎹に似る故俗に鎹丁という。
(南町分の地雑れり)
長福寺趾
この丁の北頬にあり。
加藤氏の時彼家の菩提所にて西本願寺の末山浄土真宗なり。
加藤左間助嘉明寛永8年(1631年)9月12日江戸に於いて卒し、火葬して骨を高野山に送て塔を建て後この寺にて送葬の式を営み、龕蓋等飯寺河原(本郡南青木組飯寺村の西をいう)に送り彼地にて
荼毗す(
舊事雑考には材木町の西住吉河原とあり)。棺は六万龕にて天蓋燈籠等はみな
綿繍を以て飾り、石塚観音堂の前より飯寺河原にて道の両傍に青竹の
埒を結び、また長柄を左右に建て
連子その間に白布を敷詰にして通行せしという。
後、加藤家石州吉長へ所替の時供すべきよし明成強て命ずと
雖もその勢微々なるに因て行肯せず。成明深く
憤りを含むという。
後幾くも無して廃寺となれり。
建福寺趾
長福寺趾の地にあり。
延寶8年(1680年)本郡南青木組青木村(
北青木村か?)に移れり。
寺院
文明寺
もと長福寺と建福寺とのありし地なり。
高遠山と號す。醍醐松橋無量壽院の末寺真言宗なり。もと信州上伊奈郡高遠荘にあり。
開基の年月詳ならざれども文明中(1469年~1487年)草創故寺號これに因るという。山を高遠と號せしは荘名によれり。
天正の頃(1573年~1593年)堯存(或作行尊)という僧保科弾正忠正に随ひ籌策の臣たり。
その血戦汗馬の労あるに当て先鋒して常に堅きを陥れ、戦功頗る多し。
後慶長中(1596年~1615年)肥後守正光に従て総州多胡に遷り、寛永13年(1636年)肥後守正之羽州最上に遷るに及で従て彼地に赴く。同20年(1643年)正之封をこの地に移せし時また従て移る。その頃は今の花畑の地にあり。
延寶中(1673年~1681年)今の地に移り世々当家の祈願所にて寺領100石を付す。
制札
門外にあり。
客殿
8間に6間、南向き。
本尊不動。
庫裏
12間に4間。
観音堂
境内にあり。
千手観音を安ず。
相伝う。先に総州香取郡五郷内村に稲荷山樹林寺という寺あり。往古より安置するところ観音の金像一軀あり。この寺囘祿に罹り堂宇一時に灰燼となれり。近隣の人々あわてて余煙を冐し観音の像を覔めるに得ず、後彼の堂の蹟に夕顔一茎を生す。
爰に一人の農夫あり。日ころ観音を信心せしがこの時霊夢の告ありて、日々に彼の夕顔の処に至り灌培懈る事なくやがて実を結びしかば、農夫釆て家に帰り割て見えればその内に観音の金像一軀あり。農夫不思議の事に思い人を集めてこれを見せしむるに、まさしく先に失う所の観音の像なり。ここにおいて人みな奇異の思いをなし、即ち樹林寺の故基に就いて茅茨を結び一宇を構えてその金像を安置せしかば人挙て信仰すること斜ならず。因て夕顔観音と称す。
肥後守正光深く観音を信じ、新たにその像を写し鑄さしめ堯存をしてこれを守らしめしという。
西龍寺
文明寺の東にあり。
浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。
元亀3年(1572年)了岩という沙門参州味崎村に一宇の小庵を営み西龍寺と號し、住持すること幾くも無して弟子良圓に付属せり。
その後鳥居彦右衛門尉元忠甲州に移封の時、檀越の招に応じ甲州に行きまた総州に移る。
また左京亮忠政の命により本州岩城に移住しまた羽州最上に移れり。
寛永20年(1643年)この地に来り住せりという。
本尊弥陀客殿に安ず。
寶物
親鸞真影 一幅
裏に『慶長十乙巳年六月四日本證寺錄徒三州播豆郡吉良莊味崎鄕大谷本願寺釋敎如判願主良田』と記せり。
(慶長10年=1605年)
七高僧真影 一幅
裏書に『元和三丁巳曆九月十三日(虫喰)石城郡平門西龍寺常什物也本願寺釋宣如判願主釋(虫喰)』とあり。
聖徳太子真影 一幅
裏書同上。
文書 二十通
本願寺より与る処なり。
煩しければその要を撮て左に載す(※略)
外部リンク等
- Google Map
- 河原新丁
- 鎹丁? - 宅地開発により消失か
- 長福寺跡 - 不明
- 建福寺跡 - 北青木へ移転後、敷地に文明寺が建つ
- 文明寺跡地 - おおよそ南町二丁目の辺り
- 西龍寺跡地
- 他
最終更新:2026年01月26日 22:06