「尾瀬」の語源
尾瀬の名前の由来はいくつかの説があります。主なものはの3つです。
〇地勢説
「瀬」には「川の水が浅く人が歩いて渡れる所」という意味があります。尾瀬は「生瀬」(おうせ)のことであり、浅い水湖中に草木が生えた状態である湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったといわれています。
〇尾瀬氏説
平家追討の合戦で敗れた尾瀬大納言(尾瀬三郎房利)が落ちのびて永住して尾瀬氏となったなどの落人伝説です。
〇安倍貞任「悪勢」説
前九年の役で滅んだ奥州安倍貞任の子が逃げ込み、付近の部落を襲って、「悪勢(おぜ)」と呼ばれ、転じて尾瀬となった説
要約
漁師は船の上で獣の名を呼ぶのを忌む。特に牛と猿が忌まれ、牛はクロツボ、クロ、猿はマシ、ヤエン、エテという。もし用いたら船霊さまに神酒を献じてその日のエンキをなす。
尾瀬沼の主
尾瀬沼の主は牛であるといいつたえられている。往古上州(*1)と会津を結ぶ主要な街道で、会津米、お酒、その他が輸送されたが、人力で運び決して牛を使わなかったという。もしを牛を使えば沼の主のたたりでたちまち大暴風雨になるというので牛を引かなかった。また沼では牛の話をしても主の怒りをかうといって牛の話をしなかったという。
尾瀬沼の主は「牛」だと言われています。
平安末期に宇治川の戦いに負けた高倉院以仁王はここ尾瀬沼を通り、檜枝岐村から伊南村、最後は新潟へと落ち延びてゆきます。
その家来である尾瀬中納言藤原頼実は尾瀬沼で病死、その亡骸を大江湿原の中の小さな丘(現三本カラマツ)に埋葬しました。
兄の尾瀬大納言藤原頼国は戦の負傷と弟を置いてゆけないと決心し、檜枝岐村に残ります。その際に可愛がっていった赤牛が後に尾瀬沼の主と言われております。
この牛は頼国の死後、ひとりで尾瀬沼まで歩いて行き弟の尾瀬中納言頼実の眠る尾瀬塚を三度回って尾瀬沼の中に入り、沼の主になりました。
【三本カラマツ付近にて-尾瀬塚を詣る-】
※写真は記事より引用
そのため、昔は尾瀬沼に牛を入れてはいけないという話や牛の話をしたり、生き物を殺すと天候がみるみるうちに急変し嵐が起こるなどの様々な言い伝えがあります。
*1 上州:上野国(こうずけのくに)。現在の群馬県