小瀬

陸奥国 会津郡 古町組 檜枝岐村 小瀬(尾瀬)
大日本地誌大系第31巻 11コマ目
※国立公文書館『新編会津風土記45』より小瀬沼図

小瀬沼

檜枝岐村の南にあり。
東西1里12町・南北18町。半を限り上野国利根郡の支配なり。
大江沢、釜堀沢の諸渓流入る。蒪菜(じゅんさい)多く(ふな)岩魚(いわな)を産す。四方に山を擁し水面鏡の如く、大巖その中に屺立し、鸕鷀(ろじ)多く集まる。四山皆勢緩く「ツカ」(もみ)柳の外さらに他木を交えず。
(ひうちが)嶽のみ近く北岸に(そびえた)ち、上には巖石(がんせき)重畳(ちょうじょう)し下には雑木繁茂(はんも)す。遠く西南を望めば至佛の悛嶺(しゅんれい)敷峯の奥にあらわれ、残雲(ざんうん)奇状(きじゃう)をなす。幽邃(ゆうすい)勝地(しょうち)なり。

檜枝岐村より戸倉村まで行程8里計。山谷の間人家なし。戸倉村よりこの沼の東岸に小屋2軒をかけ置き従来に便す。
土人この邊にて牛と舟とを言うことを忌む。これを犯せば怪異ありとて、漁獵(ぎょりょう)するに筏を用いて舟を用いず。

小瀬峠(三平峠)

至佛山の東にあり。利根郡と峯を界とす。利根郡戸倉村に越る路なり。

小瀬平

古町組檜枝岐村の西にあり。東西3里計。只見川原中を流れる。
土人の説に、昔以仁王(もちひとおう)供奉(ぐぶ)し来りし小瀬大納言藤原頼国という人住せし地なりという。今も小瀬沼の北岸に小瀬殿の的場の跡と伝あり。又、原中に水田の形残れる所ありとぞ。
この原の半を限り、只見川より西は上野国利根郡支配の地なり。





尾瀬の名前の由来(説)

小瀬(尾瀬)の名前の由来について取り上げている所がありましたのでご紹介。
尾瀬物語 名前の由来より一部引用
「尾瀬」の語源
尾瀬の名前の由来はいくつかの説があります。主なものはの3つです。
〇地勢説
「瀬」には「川の水が浅く人が歩いて渡れる所」という意味があります。尾瀬は「生瀬」(おうせ)のことであり、浅い水湖中に草木が生えた状態である湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったといわれています。
〇尾瀬氏説
平家追討の合戦で敗れた尾瀬大納言(尾瀬三郎房利)が落ちのびて永住して尾瀬氏となったなどの落人伝説です。
〇安倍貞任「悪勢」説
前九年の役で滅んだ奥州安倍貞任の子が逃げ込み、付近の部落を襲って、「悪勢(おぜ)」と呼ばれ、転じて尾瀬となった説
なお、会津風土記の本編に語源についての記載はありませんでした。

牛と舟とを言うことを忌む

理由がよくわからないが、三重県では舟の上で獣の名前を呼ぶことを禁忌とする風習がある。その延長か?
参照:(俗信),船霊さま
要約
漁師は船の上で獣の名を呼ぶのを忌む。特に牛と猿が忌まれ、牛はクロツボ、クロ、猿はマシ、ヤエン、エテという。もし用いたら船霊さまに神酒を献じてその日のエンキをなす。

追記1:桧枝岐村史より
関連しそうな話が桧枝岐村史にありましたので該当記事を引用します
尾瀬沼の主
尾瀬沼の主は牛であるといいつたえられている。往古上州*1と会津を結ぶ主要な街道で、会津米、お酒、その他が輸送されたが、人力で運び決して牛を使わなかったという。もしを牛を使えば沼の主のたたりでたちまち大暴風雨になるというので牛を引かなかった。また沼では牛の話をしても主の怒りをかうといって牛の話をしなかったという。

追記2:「秋の夜長を楽しむ尾瀬の不思議な話」 - 尾瀬保護財団・尾瀬沼ビジターセンターブログより
尾瀬沼の主の話について記載があったので引用します
尾瀬沼の主は「牛」だと言われています。
平安末期に宇治川の戦いに負けた高倉院以仁王はここ尾瀬沼を通り、檜枝岐村から伊南村、最後は新潟へと落ち延びてゆきます。
その家来である尾瀬中納言藤原頼実は尾瀬沼で病死、その亡骸を大江湿原の中の小さな丘(現三本カラマツ)に埋葬しました。
兄の尾瀬大納言藤原頼国は戦の負傷と弟を置いてゆけないと決心し、檜枝岐村に残ります。その際に可愛がっていった赤牛が後に尾瀬沼の主と言われております。
この牛は頼国の死後、ひとりで尾瀬沼まで歩いて行き弟の尾瀬中納言頼実の眠る尾瀬塚を三度回って尾瀬沼の中に入り、沼の主になりました。
【三本カラマツ付近にて-尾瀬塚を詣る-】
※写真は記事より引用
そのため、昔は尾瀬沼に牛を入れてはいけないという話や牛の話をしたり、生き物を殺すと天候がみるみるうちに急変し嵐が起こるなどの様々な言い伝えがあります。
最終更新:2025年07月18日 20:37
添付ファイル

*1 上州:上野国(こうずけのくに)。現在の群馬県