「尾瀬」の語源
尾瀬の名前の由来はいくつかの説があります。主なものはの3つです。
〇地勢説
「瀬」には「川の水が浅く人が歩いて渡れる所」という意味があります。尾瀬は「生瀬」(おうせ)のことであり、浅い水湖中に草木が生えた状態である湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったといわれています。
〇尾瀬氏説
平家追討の合戦で敗れた尾瀬大納言(尾瀬三郎房利)が落ちのびて永住して尾瀬氏となったなどの落人伝説です。
〇安倍貞任「悪勢」説
前九年の役で滅んだ奥州安倍貞任の子が逃げ込み、付近の部落を襲って、「悪勢(おぜ)」と呼ばれ、転じて尾瀬となった説
【尾瀬の名称と由来】
尾瀬と言えば直ちに尾瀬沼と聯想し沼の名が地方を代表する如く考へる人が多いがそうでないくてあの地方一帯の総称が尾瀬なのである。尾瀬とは上州、会津両方面とも古来よりの呼びなしで古記録には悪勢小瀬などの名が見える。
悪勢とは往昔関東奥羽の境で天嶮の要害地至佛、景鶴の岩窟に立籠もった安倍氏の残党と称へるもの、里に出でては掠奪暴行至らざるなく近隣その凶暴を畏れ憎んで悪勢々々と称したことから悪勢の立籠もる平-悪勢沼などと呼びなすようになったとの説もある。尾瀬の名称を用いるようになったのは、平の清盛の激怒を買ひ隠遁の地を探めながら東国に下向した尾瀬大納言頼國が、路に迷ひどうにもならなかった時、山の大明神が立ち現れ木の枝を折って路しるべとして下さったので漸く川のほとりに出て、小瀬に落着かれたのであったといふ。それで明神峠、枝折峠の名も起り、これ以来大納言に因んで尾瀬と書く様になったとの説が一番論據づけられてゐる。越えて治承四年平等院の敗戦に平家討伐の雄圖虚しく破れた高倉宮以仁王は曩に都落ちした尾瀬大納言や、越後小国の城主右馬頭頼之を頼ってこの地に入れせられた時、御供の尾瀬中納言頼實が卒去したので遺骸を沼の傍に納め、宮の筆で認められた墓標を建てられたのであった。それからこの沼を尾瀬沼と呼ぶ様になったと言い傳へてゐる。尾瀬大納言の行方は不明になってゐるが当時手飼にした一つがひの眞鶴は主人の行末を守って今猶沼のほとりを淋しく逍遙 して居るのであると語り傳へてゐる。
要約
漁師は船の上で獣の名を呼ぶのを忌む。特に牛と猿が忌まれ、牛はクロツボ、クロ、猿はマシ、ヤエン、エテという。もし用いたら船霊さまに神酒を献じてその日のエンキをなす。
尾瀬沼の主
尾瀬沼の主は牛であるといいつたえられている。往古上州(*1)と会津を結ぶ主要な街道で、会津米、お酒、その他が輸送されたが、人力で運び決して牛を使わなかったという。もしを牛を使えば沼の主のたたりでたちまち大暴風雨になるというので牛を引かなかった。また沼では牛の話をしても主の怒りをかうといって牛の話をしなかったという。
尾瀬沼の主は「牛」だと言われています。
平安末期に宇治川の戦いに負けた高倉院以仁王はここ尾瀬沼を通り、檜枝岐村から伊南村、最後は新潟へと落ち延びてゆきます。
その家来である尾瀬中納言藤原頼実は尾瀬沼で病死、その亡骸を大江湿原の中の小さな丘(現三本カラマツ)に埋葬しました。
兄の尾瀬大納言藤原頼国は戦の負傷と弟を置いてゆけないと決心し、檜枝岐村に残ります。その際に可愛がっていった赤牛が後に尾瀬沼の主と言われております。
この牛は頼国の死後、ひとりで尾瀬沼まで歩いて行き弟の尾瀬中納言頼実の眠る尾瀬塚を三度回って尾瀬沼の中に入り、沼の主になりました。
【三本カラマツ付近にて-尾瀬塚を詣る-】
※写真は記事より引用
そのため、昔は尾瀬沼に牛を入れてはいけないという話や牛の話をしたり、生き物を殺すと天候がみるみるうちに急変し嵐が起こるなどの様々な言い伝えがあります。
*1 上州:上野国(こうずけのくに)。現在の群馬県