この村深山の奥に住し、高山四方に峙ち、朝夕光を隠し寒気烈しく雪早く降れり。土地広けれども瘠薄にして大麦たに熟せず。ただ蕎麦を植て余糧の資とす。されども5月猶霜を降すことありて実らざるの年また少からず。故に専ら小羽板を割て生産とす。
この組西南の村落ここに窮めり。四方3里余の嶮隘を経ざれば隣村に出ることを得ず。雙なき幽僻の地なり。
この邊の山中に黒檜木多き故村名とす。
府城の西南に当り行程24里32町。
家数75軒、東西2町・南北3町、檜枝岐川の両岸に住す。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東1里22町
熨斗戸組木賊村の山界に至る。その村は丑寅(北東)に当り3里16町。
西6里余、本郡小出島組の地(小出島組は越後国
魚沼郡に隷すれどもその組に属する地面本郡に跨る)に界ひ只見川を限りとす。
南4里余、公領本郡戸倉村の地(戸倉村は上野国利根郡に隷すれどもその村に属する地面本郡に跨る)に界ひ小瀬沼を限りとす。
北1里20町
大桃村の山界に至る。その村まで3里8町。
また
辰巳(南東)の方4里余、日光神領下野国都賀郡川俣村に界ひ馬坂山の頂を限りとす。
もと村より丑(北北東)の方8町に瀧澤という端村あり。寛政7年(1795年)本村に移せり。
山川
駒嶽
村より戌亥の方20町余にあり。
帝釈山
村の辰(東南東)の方4里余にあり。
(
本郡の条下に詳なり)
赤安山
村より巳(南南東)の方2里18町余にあり。
頂まで1里計、2峯相並で東西に連なる。
(上野国にては東の峯を北また山といい、西の峯を大江山という)
西の峯は戸倉村と頂を界ひ、東の峯は川俣村・戸倉村と頂を界ふ。
頂上まで1里余。
この山の東の方に黒岩・馬坂という2山あり。
共に川俣村と峯を界ふ。
長田代山
村より巳午(南南東~南の間)の方2里計にあり。
川俣村と峯を界ふ。
燧嶽
村の未申(南西)の方2里余にあり。
頂まで1里余。
絶頂には四時雪あり。
半腹より上は皆岩石重疊して草木生せず。
沼越峠
村より申(西南西)の方2里余にあり。
上下各1里余。
利根郡沼田に行く道なり。
銀山
村西6里計、只見川の東にあり。
正保の頃(1645年~1648年)白銀を産せりという。
今なお旧坑あり。
小瀬沼
只見川
また、あがの川ともいう。
村西6里余にあり。
源を
小瀬沼より発し、北に流るること2里計(これより上を俗に沼尻川という)戸倉村の界より猫川来り合し、また北に流るること1里余(これより上を俗に猫川という)不動滝に潟ぎ、また北に流れ
木賊沢・
長沢・
大津岐沢・
片貝沢・
袖沢・
村杉沢等これに注ぎ、7里18町計を経て
黒谷組石伏村の界に入る。
水源よりここに至るまで10里18町。
広30間計
不動瀧
また三条瀧ともいう。
村より6里申酉(西南西~西の間)の方只見川の上流にあり。
懸崕より直ちに潟ぐこと20丈余、残雪の消融する時水勢もっとも壮なりという。
檜枝岐川
源2。
一は黒岩山より出て
三川沢という。
硫黄沢・
上瀧沢・
七七入沢これに注ぐ。
一は馬坂山より出て馬坂川という。
共に3里18町計、北に流れ村南にて2水合し檜枝岐川となり、村中を過ぎまた
大戸沢を受け北に流るること1里23町、
大桃村の界に入る。
見通沢
村東18町にあり。
源は境内の山中より出て、北に流るること2里檜枝岐川に入る。
広5間。
下滝沢
村の丑(北北東)の方7町にあり。
源は駒嶽より出て、東に流るること1里計檜枝岐川に入る。
広3間。
大江沢
村より未申(南西)の方3里31町にあり。
源は赤安山より出て西に流るること1里計小瀬沼に入る。
広2間。
釜堀沢
村より未申(南西)の方4里余にあり。
源は赤安山より出て、西に流るること1里計小瀬沼に入る。
広2間。
原野
小瀬平
土産
鷂
寛文の頃(1661年~1673年)までは境内の諸山より産するものを最佳とす。
今は産せず。
小羽板
境内の山中に黒檜多し。
割て府下に鬻ぎ出す。
長板
姫松を引割て上州の方に鬻ぎ出す。
曲物
黒檜をまげて小桶に製し隣郷に鬻ぎ出す。
大桃村よりも出す。
関梁
檜枝岐口
村中にあり。
木戸門を設け里民これを守り往来を察す。
これより沼田に通ず。
山路嶮難にして駄馬通せず。
橋7
共に丸木橋なり。
一は村中にあり。長20間。
一は村北12町にあり。長12間。
一は村北1里余にあり。長13間。
共に檜枝岐川に架す。
一は村北7町下瀧沢に架す。長7間。
一は村東18町見通沢に架す。長8間。
共に府下の通路なり。
一は村南12町にあり。長9間。
一は村南19町にあり。長10間。
共に檜枝岐川に架す、沼田に通る路なり。
神社
燧嶽神社
村の戌亥(北西)の方30間余にあり。
鳥居あり。木賊村星安藝これを司る。
駒嶽神社
燧嶽神社と同じ処に祠る。
山神社
同上
山神社
同上
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- 白峯銀山 - かつてあった銀山について
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鎮守神社(檜枝岐神社)
檜枝岐歌舞伎(1976年に国の重要有形民俗文化財に指定)でも有名になった本神社だが、祭神がはっきりとしない。
一説によれば鎮守神社は元々燧嶽神社であったとの話もある。
「
檜枝岐民俗誌」(1951年出版)の『九.信仰』の項によると、
鎮守様といはれる村人の神人仰の中心をなしてゐる社の境内には、八幡、山神、燧岳、駒岳、雨の宮、風の宮、雷電宮、疱瘡神、稲荷神などが一つの境内に雑居し給ひ、この他に愛宕神社が独立してゐる。
この中で八幡様と山ノ神、およびこの村で二つの名山とされてゐる燧岳、駒岳の四柱の神が一般に鎮守と総称されてゐる。又ある人は八幡様だけが鎮守だと信じてゐる。
とある。
また、開拓地の鎮守神として、小沢・砂子・赤岩・大津岐に鎮守神の分神を祭った。昭和33年8月25日に小沢平、翌26日には赤岩平・大津岐・日暮平にも鎮守神を祭ったとのこと。(村史より)
追記:
桧枝岐村史より
駒形大明神と燧大権現についての記載があったので追記します
駒形大明神
会津郡檜枝俣山あり
是ハ越後国魚沼郡上田荘ト 陸奥国会津郡
長江荘ノ境 駒ヶ岳ノ頂ニ鎮座
弘仁七丙申(八一〇)始テ鎮守崇神ス 是伊弉諾尊 天雅彦命 二神ヲ祭 両国鎮守ト云
燧大権現
右同
是ハ燧嶽ニ天長九壬子(八二九)葛木一言主命を祭 村民鎮守為
疱瘡神
疱瘡神は疱瘡の神として祭られている。
疱瘡神御神託
当処御鎮座縁記によれば、『人王百四十代東山院治天 元禄九丙子年 御鎮座 宝暦七年丑六十二年成る』
往古の素本なく 写帳多情なくして祖先の御伝言にて露す
星氏吉忠 寿年
三十七歳
(以下略)
『高倉宮以仁王』御通り
高倉宮の御通りのことは、正確な記録とはいえないが、当地方の古くよりいい伝えられる伝説的なことがらからいって、地域住民に信じられるものであるので記述しておく。
高倉宮以仁王は、宇治川の戦いに敗れ、奈良路から近江の信楽にのがれ、東海道を下って甲斐より信濃に入り、上州沼田を越えて片品川の流れをさかのぼり、檜枝岐村を通り大川より伊南川を下り、六十里越を経て越後におもむかれたといわれる。
史実には、高倉宮以仁親王は、治承四年庚子(1180)宇治において、御落命というがはかりごとで、実は、陣中にて身代わりをたて逃れ出したまうという。
源三位頼政の弟、越後の国の住人小国左馬頭頼行を頼りに落ちがまう。御供の人々は、尾瀬中納言源ノ頼実、其兄大納言源頼国、小倉ノ少将藤原ノ定信、頼政の末子乙部右衛門佐重頼、三河ノ少将光明、渡部ノ十七唱、猪野隼太勝吉、そのほか立位ノ青待およそ十三人であったという。
この時、尾瀬大納言頼国は(いにしえは長沼ともいい、鷲ヶ沼ともいう)、この沼の辺にとどまり給い、養和元年(1181)七月十七日この所にて卒去せられた。これより尾瀬沼と改められた。
今なお、尾瀬沼の北辺に、尾瀬塚がある。これが尾瀬大納言の遺骸を埋めた所といわれる。また大江川のほとりに、大納言の庭木といわれるスオウの灌木が現存している。ほかの供の人々も、皆戦のため少々の傷を受けておられ、三河ノ少将は、燧ヶ岳のふもとを通り沢に来られてここにとどまり、ついにこのところで卒去せられた。これより三河沢という。時に八月六日であった。また、三河沢に沿って矢櫃という所あり、御一行は片品川をさかのぼり山また山なき道を御通りになり、あまり御疲れになり、矢櫃をおろされ、その場に置かれたので、それより矢櫃平といわれるようになったという。
宮御一行は檜枝岐村村司勘解由方に一泊されたという。その折に宮の御一行に供した果物の梨を、後日御前梨といい、また清水を差し上げたとの清水を安宮清水というようになった。この清水は現在も残っている。これらは川向部落にいずれもあって、当時は川向部落が村の中心地であったことが推察される。
小倉ノ少将藤原定信は、隣村大桃に至り、足が立たず、ここにとどまりたまい、出家入覚されて、大桃山滝厳寺を建てられた。そして、宇治の戦の戦死者や尾瀬大納言、三河ノ少将等の霊を弔らわられたという。
宮の御一行は、それより越後をさして落ちたまうとある。
最終更新:2025年07月18日 21:00