高倉宮以仁王の伝説
伝説のはじまり
奥会津には高倉宮以仁王の伝説がどの部落にもある。
以仁王とは安徳天皇の御代、治承四年六月(一一八〇年)高倉宮以仁王が、平家の横暴きわまりない姿にいきどおられ、源三位頼政のすすめにより、平家討伐ののろしをあげて宇治川のほとりにて戦われ、利あらずついに敗北となった。
そのとき供の渡部連(唱の兄)が王の身代りになるべく請い奉って、以仁王の衣類を身に着けて腹を切り、弟渡部唱が鎧して首を宇治川に投げ入れた。
以仁王は三井寺より船で逃れられ、越後国の住人小国右馬頭源頼行をたよって、小国の里に落ちのびられることになった。
頼行は源三位頼政の弟なのでそれを頼りに、尾瀬中納言藤原頼実卿(これは檜枝岐の住人尾瀬大納言藤原頼国の弟)参河少将藤原光明、小倉少将藤原定信、乙部右門助源重朝(これは頼政の子である)、渡部丁七唱、猪早大藤吉、その他六位の士およそ二三人、外に西方院殿了(これは長谷部長兵衛之永信連の一族である)をお供とされて、七月一日上州沼田より戸倉沼山においてになったという。
南会津に残る以仁王の伝説は、このへんからはじまっている。
事実?
史実では治承4年(1180年)5月26日に「光明山寺の鳥居の前で討たれた」とされていますが、そもそも高倉宮の顔を知るものが居なかった事とその後の首実験も適当であった事を踏まえ、実は討たれた者は別人であり宮は東国へと逃げ延びたという風説が当時流れました(玉葉)。
それを裏付けるように南会津地方では宮が逃げ延びたとする形跡が各地に残っています。
いわゆる貴人亡命譚ですが、風土記内にいくつか伝承が残されています。
なお、柳田國男は高倉宮の亡命譚を「木地師が自身の正当性や高貴性を示すために生み出した神話的要素」としていますが、そもそも会津地方に木地師がやってきたのは蒲生氏郷公の時代に近江日野から呼び寄せたのが始まりであり、また身分を偽る必要性などまったくなく、さらに宮の時代とは400年以上の差があり無理があると感じます。
ちなみに、木地師という職業は弥生時代からあり、古代日本でも土器だけではなく漆を使った素朴な器を使用していました。
古代の日本(奈良~平安時代)になると公的には「轆轤工」と呼ばれ、一部貴族の庇護を受ける人々も出てきます。
中世(鎌倉~室町時代)になると「轆轤師」と呼ばれ、地方の領主から免状を受け各地を転々とします。同時に地方との結びつきが強くなったのもこの時期です。
近世(おおよそ江戸時代~)初期の頃は「木地挽き」「轆轤師」「木地屋」と呼び名は安定していませんが、後期になると「木地師」とよばれるようになります。
(「木地語り」田島町教育委員会より)
高倉宮茂仁親王御潜行程表
| 年号 |
西暦 |
月日 |
潜行程 |
関連人物 |
治承4 庚子 |
1180 |
7月 |
宇治川合戦にて敗北 |
源三位頼政の勧 高倉上皇第二皇子 |
| ↓ |
足利又太郎忠綱により命助り給う |
足利又太郎忠綱 |
| ↓ |
中仙道→上州沼田→戸倉→檜枝岐山入 |
小国右馬頭頼行(頼政の弟) |
| 7/9 |
御奉供者 ・尾瀬中納言藤原頼実(尾瀬大納言藤原頼国の弟) ・参川(三河)少将光明 ・小倉少将藤原定信 ・乙部右衛門佐重朝(頼政の末子) ・田千代丸(童名) ・良等(頼兼改め) ・渡部長七唱 ・猪野隼太勝吉 ・西方院寂了(長谷部長兵衛信連の一族) 他、六位の北面の武士13名 |
|
| ↓ |
戸倉に御泊 |
尾瀬中納言卒去。沼に納骨 |
| 8/9 |
南会津入 沼山を出発→檜枝岐に |
|
| ↓ |
燧ヶ岳麓の沢にて参川少将卒去 |
実川 |
| ↓ |
檜枝岐勘解由所着。ここに2泊 |
丙午(檜枝岐)村 村司勘解由(嘉慶) |
| 8/11 |
大桃の里に御泊 |
小倉少将御病気 村司九郎左衛門。勘解由の従弟 |
| ↓ |
小倉少将定信出家して大桃山滝岩寺建立 |
大桃山滝岩寺 |
| 8/12 |
八総村御泊 |
村司蔵人宅。竹杖原の起こり |
| 8/13 |
竹杖原より大峠へ |
杣人4,5人協力し越ゆ |
<作成中>
※幾つか不備があったため訂正を入れた
風土記内に伝わる高倉宮の伝承
外部リンク等
参考資料
Wikipedia
Google Map
- 高倉宮址 - 宮の自宅があったとされる場所(三条高倉)
- 高倉神社 - 大内鎮守。高倉宮の霊を祀る。
- 佐藤家住宅(玉屋) - 大内宿内にある。高倉宮が休憩された家で高倉宮御伝記が伝わる。現在はネギ蕎麦が有名となっている(何故?)
- 紅梅御前宮 - 戸石地区の西にある。本文に「御前神社」の記載があり。高倉宮を追いこの地で亡くなった紅梅御前を祭った宮。桜木姫とは別人
- 小椋神社 - 近江国小椋谷にある木地師発祥とされる地区にある神社
最終更新:2026年07月07日 23:57