高倉宮以仁王
史実では治承4年(1180年)5月26日に「光明山寺の鳥居の前で討たれた」とされていますが、そもそも高倉宮の顔を知るものが居なかった事とその後の首実験も適当であった事を踏まえ、実は討たれた者は別人であり宮は東国へと逃げ延びたという風説が当時流れました(玉葉)。
それを裏付けるように南会津地方では宮が逃げ延びたとする形跡が各地に残っています。
いわゆる貴人亡命譚ですが、風土記内にいくつか伝承が残されています。
なお、柳田國男は高倉宮の亡命譚を「木地師が自身の正当性や高貴性を示すために生み出した神話的要素」としている。が、そもそも会津地方に木地師がやってきたのは蒲生氏郷公の時代に近江日野から呼び寄せたのが始まりであり、また身分を偽る必要性などまったくなく、さらに宮の時代とは400年以上の差があり無理があると感じる。
- 風土記内の記述
- 参考
- Google Map
- 高倉宮址 - 宮の自宅があったとされる場所(三条高倉)
- 高倉神社 - 大内鎮守。高倉宮の霊を祀る。
- 佐藤家住宅(玉屋) - 大内宿内にある。高倉宮が休憩された家で高倉宮御伝記が伝わる。現在はネギ蕎麦が有名となっている(何故?)
- 紅梅御前宮 - 戸石地区の西にある。本文に「御前神社」の記載があり。高倉宮を追いこの地で亡くなった紅梅御前を祭った宮。桜木姫とは別人
- 小椋神社 - 近江国小椋谷にある木地師発祥とされる地区にある神社
最終更新:2025年07月11日 23:47