高倉宮以仁王

高倉宮(たかくらのみや)以仁王(もちひとおう)

史実では治承4年(1180年)5月26日に「光明山寺の鳥居の前で討たれた」とされていますが、そもそも高倉宮の顔を知るものが居なかった事とその後の首実験も適当であった事を踏まえ、実は討たれた者は別人であり宮は東国へと逃げ延びたという風説が当時流れました(玉葉)。
それを裏付けるように南会津地方では宮が逃げ延びたとする形跡が各地に残っています。
いわゆる貴人亡命譚ですが、風土記内にいくつか伝承が残されています。

なお、柳田國男は高倉宮の亡命譚を「木地師が自身の正当性や高貴性を示すために生み出した神話的要素」としている。が、そもそも会津地方に木地師がやってきたのは蒲生氏郷公の時代*1に近江日野から呼び寄せたのが始まりであり*2、また身分を偽る必要性などまったくなく、さらに宮の時代とは400年以上の差があり無理があると感じる。

最終更新:2025年07月11日 23:47

*1 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥羽仕置

*2 参考:会津塗の歴史 - 会津漆器協同組合