甲賀町通の西に並び、南は南町口より北は五之町にて少し西に折れ大町口に出つ。
長11町43間余・幅8間。家数2軒。
郭内の大通なる故東西の丁に属する家多くはこの通に向う。
大町口
この通の北端にあり大町に出る郭門なり。
番所東向。
南町口
この通の南端にあり南町に出る郭門なり。
番所東向。
別墅
この道の西頬、本一之丁と米代一之丁の間にあり。
上杉氏の時その老臣直江山城守兼続が装束屋敷なりしという。
肥後守正之封に就て後も執政の居宅なりしが、後故ありて西の方数間を割き士屋敷とし東の方を別墅とす。
今西の方に割し士屋敷の内に直江清水とて昔の遺迹存せり。
作業場
この通の東頬にて別墅に向う。
相伝う。
この地、蒲生氏の時までは芝原にて犬追物を習う場所なりしが、加藤氏の時屋敷地となり今は作業場とす。
内に火見櫓あり。
天寧寺町口・小田垣口・南町口・河原町口の郭門にも恒に小鐘を懸て喚続の相図をなさしむ。
廳事
この通の東頬本二之丁の角にあり。
門二ヶ所、西にあるを表門とし北にあるを裏門とす。
この内に執政の署を始め諸の役署ありて、封内の事を管轄す会所と称ふ。
加藤氏の時より当家の始まで三之丸の内にありしが、後作業場の地に置き、また今の地に移せり。
閑宅
この通りの西頬六之丁の角にあり。
凡士人罪を犯し他邦に追放すべき者をは、これを捨ずしてこの内に幽し日夜経義を学はしむ。
各年限あり。若能く過を悔い行を改るものは期を待ずして赦す。
徒小屋
閑宅の構の内にあり。
庶人の罪軽くして死に至らざる者及び他方に追放すべき者はこの小屋の内に囚へおき、頭を髠して諸の薬事を勤めしむ。
また各年限あり。期満るに及て赦して郷里に帰らしむ。
若狐獨にして生業に乏きものは口量を与てこれを賑はし産を失う事無らしむ。且過を悔い行を改る者は期を待ずして赦すこと閑宅の定に同じ。
獄屋
大町口の東側にあり。
閑宅に向うまた庶人の婦女・罪の軽き者は、一室に幽して女工を業とせしむ。
その定徒小屋と同じ。
参照・補足
外部リンク等
神明通り
開通したのは昭和19年(1944)頃だが第二次世界大戦の戦況悪化により一時中断。翌年には正式に完成。
開通当時は「軍需通り」「疎開道路」と呼ばれた。
通りの名前は神明神社に由来し、改名されたのは昭和20年
神明通りから滝沢バイパスまで
太平洋戦争も昭和十八年(1943)に入ると、戦場では、カダルカナル島撤退があり、国内では官庁・工場などの疎開方針が決定された。
この頃、若松市(市長:高山輝義)でも、建物疎開によって、都市の防火に役立たせるという、都市計画道路開設事業が具体化されることになり、大町一之町旧市役所前と、南側栄町・神明神社とその近くの家の移転、取り壊しが進められた。
まず十八年中頃には、北側大町一之町に面した星賢吉宅(旧会津銀行所有)と南側の本間巳利宅と蒔絵師折笠英二宅の一部、代書人万波粂吉の事務所が取り壊され、また旧市役所前の道路をへだてた東側の大源(藤井マキ)の屋敷・倉、その借家(皆川一光宅)が壊され移転された(現大源と笹善は、その時移動した倉)。
一方、南側は、十九年九月に神明神社の仮神殿が西南に移転し、その西側にあった小山自転車店もその後方に、東側にあった阿部床屋・関本写真店・カフェー「ほろよい」も移転や取りこわしが行われ、神社の後方にあった渡辺・長谷川・西村花屋の花畑や興徳寺墓地も整理された。こうして二十年五月から道路工事が進められ、八月には、その開通をみた。
戦後の土木事業は、戦時中の都市計画の後始末と、新しい都市づくりのために、失業対策として進められてきた。まず建設されたのが戦時中疎開道路として放置され、ヤミ市の群立していた神明通りである。
昭和二十三年から露天商の小屋の撤去が行われ、商店街としての形を整え、北側より車道の簡易舗装が開始され、今まで雨が降ると、赤土でどろまみれになっていたこの道路もようやく整備され、翌二十四年には歩道が、二十五年には車道も完成した。
この道路の整備は神明通りだけでなく、新産業道路・観光道路として昭和二十四年には千石町から小田橋・西若松に至る西若松線、天寧寺町から東山街道に接続する石山線の建設・整備が行われ、市内繁華街の簡易舗装も進められた。
十八蔵橋跡地
大町通りの南端、かつて南町口の郭門があった場所に
十八蔵橋の跡地が残されている。
若松城下絵図にも御米蔵の下に南町口の門戸と本橋が描かれている
※
若松城下絵図(作製:江戸時代後期) - [会津若松市]デジタルアーカイブより
最終更新:2026年03月01日 01:18