横通

陸奥国 会津郡 若松 郭内 横通
大日本地誌大系第30巻 111コマ目

※国立公文書館『新編会津風土記12』より


凡八条あり。
みな南北の通にて小田垣より本丁を貫くもの2条あり、寶積寺通三日町通これなり。
本丁の内にて他の区城に出さるものまた2条あり、六日町通甲賀町通これなり。
余の4条は米代より本丁を貫けり。されど各条の通多くは東西の丁に属する家の裏行にてこの通に隷するものは稀なり。まま便につきて門を横通に開けるあるも自らその数にあらず。因て東西の通に比すれば家数常に少し。

寶積寺通

内郭の東にあり。
南は寶積寺口より北は本三之丁の土居際に至る。
長2町25間・幅6間。北の端より少し西に折て徒町口に通す。
家数4軒。
昔はこの通より本郡南青木組小田村寶積寺に行く、因てこの名ありとぞ(或は寶積寺もとはこの地にありともいい伝う)。

寶積寺口
この通の南端にあり。
今不要なる(ゆえ)鎖て往来を禁ず。俗不開(あかず)門という。

徒町口
この通の北端より西の方三之丁に折れ北に向て徒町に出る郭門なり。
今不要なる(ゆえ)鎖して往来を禁ず。


三日町通

寶積寺通の西に並び、南は小田垣口より北は本四之丁の土居際に至る。
長5町40間余・幅5間。
この通みな東西の丁に属する家の裏行なり。

三日町口
この通の北端より西の方本四之丁に折れ、北に向て三日町に出る郭門なり。
番所、西向。

小田垣口
この通の南端にて、西に向い南に折れ外小田垣に出る郭門なり。
番所、西向。


六日町通

三日町通の西に並び、南は本一之丁より北は五之丁の土居際に至る。
長4町6間余・幅5間。家数2軒。


甲賀町通

六日町通に西に並び、南は本一之丁より北は甲賀町口に至る。
長5町22間余・幅10間。家数2軒。
この通は内郭よりの追手道なる(ゆえ)東西に属する家々多くはこの通に向う。

甲賀町口
この通の北端にあり左右高石垣にて甲賀町に出る郭門なり。
番所、東向。
西の方石垣の中、9尺に1間余の石に『□□衛與』と彫付あり。上の2字剥落して明ならず何の謂れを伝えず。

※会津若松市図書館デジタルアーカイブより『甲賀町通り・鐘撞堂


實相寺跡
昔この通の北端郭門の西に安吉山實相寺とて臨済宗の寺あり。
元徳中(1329年~1331年)大光禅師の草創にて、ここより西の方興徳寺の境内に隣り大地なりしという。文禄中(1593年~1596年)郭外五之町に移れり。
その頃十境とて般若水・安禅石・夢妙石・月見庵・光龍柳・法雲堂・高樓會東光門・明星水・臨月橋と称す。
旧趾の今に残りしもの左に載す。

般若水。
郭門の西士屋敷の内にあり。
今は(わずか)の汚池となる。
相伝て、これ等の子院に住せし宥鎭という僧この水にて般若心経を写せしより名くという(大町一桂院の条下と照見るべし)。一説に昔はこの池中にて時々般若を讀誦(どくじゆ)する聲聞えし(ゆえ)名くとも云えり。
またこの池の邊に大なる杉木一本あり。周数囲、般若杉と名け(みだ)りに伐採する事無りしが、近き頃枯れ失て今は(ひこばえ)*1のみ残れり。

安禅石。
般若水の側にあり。座禅石ともいう。
径数尺、平らみあり。当寺22世残夢という僧座禅せし所という。

明星水。
郭門の側にある井なり。
その水茶に佳し。

臨月橋。
五之丁とこの通との辻・車川に架せし石橋、その遺迹なりという。

余の六境、今その所を詳にせず。

  • Google Map
    • 大手町通りと市役所通りの交差点
      • 大手町通りは旧甲賀町通で、市役所通りは旧五之丁です。おそらくこの交差点に昔は臨月橋が架けられていたと考えられます。市役所通りの北側の歩道の下には現在も旧車川の水路が通っています。


大町通

甲賀町通の西に並び、南は南町口より北は五之町にて少し西に折れ大町口に出つ。
長11町43間余・幅8間。家数2軒。
郭内の大通なる(ゆえ)東西の丁に属する家多くはこの通に向う。

大町口
この通の北端にあり大町に出る郭門なり。
番所、東向。

南町口
この通の南端にあり南町に出る郭門なり。
番所、東向。

別墅(べっしょ)
この道の西頬、本一之丁と米代一之丁の間にあり。
上杉氏の時その老臣直江山城守兼続が装束屋敷なりしという。肥後守正之封に就て後も執政の居宅なりしが、後(ゆえ)ありて西の方数間を割き士屋敷とし東の方を別墅とす。
今西の方に割し士屋敷の内に直江清水とて昔の遺迹存せり。

作業場
この通の東頬にて別墅に向う。
相伝う、この地蒲生氏の時までは芝原にて犬追物を習う場所なりしが、加藤氏の時屋敷地となり今は作業場とす。
内に火見櫓あり。天寧寺町口・小田垣口・南町口・河原町口の郭門にも恒に小鐘を懸て喚続(よびつぎ)の相図をなさしむ。

廳事(ちょうじ)
この通の東頬本二之丁の角にあり。
門二ヶ所、西にあるを表門とし北にあるを裏門とす。
この内に執政の署を始め諸の役署ありて封内の事を管轄す会所と称ふ。
加藤氏の時より当家の始まで三之丸の内にありしが、後作業場の地に置き、また今の地に移せり。

閑宅
この通りの西頬六之丁の角にあり。
凡士人罪を犯し他邦に追放すべき者をは、これを捨ずしてこの内に幽し日夜経義を学はしむ。
各年限あり。若能く過を悔い行を改るものは期を待ずして赦す。

徒小屋
閑宅の構の内にあり。
庶人の罪軽くして死に至らざる者及び他方に追放すべき者はこの小屋の内に囚へおき、頭を(こん)*2して諸の薬事を勤めしむ。
また各年限あり。期満るに及て赦して郷里に帰らしむ。
若狐獨にして生業に乏きものは口量を与てこれを賑はし産を失う事無らしむ。(かつ)過を悔い行を改る者は期を待ずして赦すこと閑宅の定に同じ。

獄屋
大町口の東側にあり。
閑宅に向うまた庶人の婦女・罪の軽き者は、一室に幽して女工を業とせしむ。その定徒小屋と同じ。

  • 余談:十八蔵橋跡地
    • 大町通りの南端、かつて郭門があった場所に十八蔵橋の跡地が残されています。


桂林寺町通

大町通の西に並び、南は米代四之丁より北は本一之丁に至て少し西に折れ、また三之丁にて西に廻り北の方桂林寺口に通す。
長9町55間余・幅5間。家数3軒。

桂林寺町口
この通の北端にあり。
桂林寺町に出る郭門なり。
番所、東向。


諏訪通

桂林寺町通の西に並て、南は花畑口の郭門より北は諏訪神社の門前に至る。
長5町31間余・幅4間。屋敷2軒。

花畑口
この通の南端にて、西に向い南に折れ花畑に出る郭門なり。
番所、西向。


融通寺町通

諏訪通の西に並て、南は米代二之丁の末より北は融通寺町口の郭門に至る。
長2町31間余・幅5間余。家数6軒。

融通寺町口
この通の北端にあり。融通寺町に出る郭門なり。
番所、東向。

野島原(のじまがはら)
この通の南の方にある芝原なり。
昔、家士野島某か居宅の側なりし(ゆえ)名く。今は士屋敷となりてその迹(わずか)に残れり。
またこの地に往昔獄屋ありしといい伝れど年代詳ならず。



余談。
※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

甲賀町通に記載した市役所通り(東西)と大手町通り(南北)の場所を少し古い地図上に載せてみました。現在の会津若松市役所は赤で印を付けた所です。なお、会津風土記編纂時期五之丁(市役所通り)の幅は狭い所でも8間(約15m)程ありました。
ちなみに市役所の北にある広い寺が興徳寺で、神明通りが出来たのは昭和21年(1946年)です。
最終更新:2022年10月26日 13:47

*1 切り株や木の根元から出る若芽

*2 かみそりの刑。髪をそり落とす刑罰