※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記21』より
外郭の南にあり故に名く。
蒲生氏の時置く処といい伝えれども詳ならず。若くは此時町割を改増せしにや。
通数条あり。
南町口の郭門を出て南の方屈曲して大橋の詰に至る。
長1町14間・幅4間余、家数33軒。
大橋
この町の南端黒川に架す。
長10間・幅3間。勾欄あり。
この橋を経て中横町に通す。
中町の中頃より西に折れて花畑大通に通す。
長59間余・幅2間余、家数9軒。
寺院
長楽寺
この通の南頬にあり。
浄土真宗大町
融通寺の末寺なり。山號を鷲鷹山といい天正中(1573年~1593年)萬機という僧開基す。
本尊弥陀客殿に安ず。
観音堂
境内にあり
弁天堂
同上
中町の南端より西に折れ黒川の北岸に傍て
花畑組町河原通に行く通なり。
長1町20間余・幅1間余、家数15軒。
この地昔布を多く晒せし所
故名けりという。
中町の北端より東に折れ外隍に傍て熊野口の前に行く通なり。
長1町46間余・幅2間、家数22軒。
足軽同心の居なり。
小田町河原新丁の末に続き黒川の北に傍て西の方大橋の詰に至る。
長3町40間余・幅3間、家数21軒。
中頃に僅の裏通あり。東西の端よりこの丁に出つ。その形
鎹に似る
故俗に
鎹丁という。
(
南町分の地雑れり)
長福寺趾
この丁の北頬にあり。
加藤氏の時彼家の菩提所にて西本願寺の末山浄土真宗なり。
加藤左間助嘉明寛永8年(1631年)9月12日江戸に於いて卒し、火葬して骨を高野山に送て塔を建て後この寺にて送葬の式を営み、龕蓋等飯寺河原(本郡南青木組飯寺村の西をいう)に送り彼地にて
荼毗す(
舊事雑考には材木町の西住吉河原とあり)。棺は六万龕にて天蓋燈籠等はみな
綿繍を以て飾り、石塚観音堂の前より飯寺河原にて道の両傍に青竹の
埒を結び、また長柄を左右に建て
連子その間に白布を敷詰にして通行せしという。
後加藤家石州吉長へ所替の時供すべきよし明成強て命ずと
雖もその勢微々なるに因て行肯せず。成明深く
憤りを含むという。後幾くも無して廃寺となれり。
建福寺趾
長福寺趾の地にあり。
延寶8年(1680年)本郡南青木組青木村に移れり。
寺院
文明寺
もと長福寺と建福寺とのありし地なり。
高遠山と號す。醍醐松橋無量壽院の末寺真言宗なり。もと信州上伊奈郡高遠荘にあり。
開基の年月詳ならざれども文明中(1469年~1487年)草創故寺號これに因るという。山を高遠と號せしは荘名によれり。
天正の頃(1573年~1593年)堯存(或作行尊)という僧保科弾正忠正に随ひ籌策の臣たり。その血戦汗馬の労あるに当て先鋒して常に堅きを陥れ戦功頗る多し。後慶長中(1596年~1615年)肥後守正光に従て総州多胡に遷り、寛永13年(1636年)肥後守正之羽州最上に遷るに及で従て彼地に赴く。同20年(1643年)正之封をこの地に移せし時また従て移る。その頃は今の花畑の地にあり延寶中(1673年~1681年)今の地に移り世々当家の祈願所にて寺領100石を付す。
- 制札 門外にあり。
- 客殿 8間に6間、南向き。本尊不動。
- 庫裏 12間に4間。
観音堂
境内にあり。
千手観音を安ず。
相伝う。先に総州香取郡五郷内村に稲荷山樹林寺という寺あり。往古より安置するところ観音の金像一軀あり。この寺囘祿に罹り堂宇一時に灰燼となれり。近隣の人々あわてて余煙を冐し観音の像を覔めるに得ず、後彼の堂の蹟に夕顔一茎を生す。
爰に一人の農夫あり。日ころ観音を信心せしがこの時霊夢の告ありて日々に彼の夕顔の処に至り灌培懈る事なく、やがて実を結びしかば農夫釆て家に帰り割て見えればその内に観音の金像一軀あり。農夫不思議の事に思い人を集めてこれを見せしむるに、まさしく先に失う所の観音の像なり。ここにおいて人みな奇異の思いをなし、即ち樹林寺の故基に就いて茅茨を結び一宇を構えてその金像を安置せしかば人挙て信仰すること斜ならず。因て夕顔観音と称す。
肥後守正光深く観音を信じ新たにその像を写し鑄さしめ、堯存をしてこれを守らしめしという。
西龍寺
文明寺の東にあり。
浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。元亀3年(1572年)了岩という沙門参州味崎村に一宇の小庵を営み西龍寺と號し住持すること幾くも無して弟子良圓に付属せり。その後鳥居彦右衛門尉元忠甲州に移封の時檀越の招に応じ甲州に行きまた総州に移る。また左京亮忠政の命により本州岩城に移住しまた羽州最上に移れり。寛永20年(1643年)この地に来り住せりという。
本尊弥陀客殿に安ず。
寶物
- 親鸞真影 1幅。裏に『慶長十乙巳年六月四日本證寺錄徒三州播豆郡吉良莊味崎鄕大谷本願寺釋敎如判願主良田』と記せり(慶長10年=1605年)。
- 七高僧真影 1幅。裏書に『元和三丁巳曆九月十三日(虫喰)石城郡平門西龍寺常什物也本願寺釋宣如判願主釋(虫喰)』とあり。
- 聖徳太子真影 1幅。裏書同上
- 文書 20通。本願寺より与る処なり。煩しければその要を撮て左に載す(※略)
大橋の詰より南の方弓丁の角に至る。
長1町1間余・幅3間余、家数18軒。
大橋
この町の北端に架す(中町の条下に詳なり)。
中横町の南に続き末は西に折れて馬橋に至る。
長1町14間・幅3間計、家数39軒。
醫徳山常慶寺ある
故町名とす。
南端を古川流る。石橋を架し東黒川南町分馬橋通に通す。
(
南町分の地雑はれり)
別墅
この町の南端東頬にあり。
東南は東黒川南町分の田圃なり。
寺院
常慶寺
この町の西頬にあり。
曹洞宗上野国白井雙林寺の末寺なり。山号を醫徳山という。
越後国常慶寺の住持慶岩という僧上杉景勝就封の後壇越の好を慕いこの地に来り当寺を建立す。時に慶長4年(1599年)なり。後程なく囘祿に罹り悉く什宝を失う。
本尊釈迦客殿に安ず。
白山神社
境内にあり。
相殿一座:稲荷神。
旧家
三善藤四郎
その先藝州広島の産にて藤四郎長国といい初め宗左衛門と称す。幼にして父に後れ伯父播磨守輝宏に育はれ備前長義が流を酙んで刀剣の工を学べり。子を藤四郎政長といい初めは理右衛門正長と称す。天文中(1532年~1555年)加藤嘉明に招かれ父と共に伊予国末山に至り寛永4年(1627年)従てこの地に来れり。政長が子を藤四郎長道と称す。銘に『陸奥大掾三善長道』と彫しはこれなり。これ等世の知る所にてその業頗る秀たり。長道より今の藤四郎長道に至て6世相続し月俸を与て家人の列に次せしむ。
常慶寺町より西に折れ南に廻りまた西に転じ西横町にです小路なり。
長33間、家数10軒。丁名もこれに因れり。
足軽同心の居宅なり。
中横町の西に並びて北は黒川の岸より南は古川の邊に至る。
長1町47間・幅3間余、家数43軒。
黒川の南にて東西の通なり。
東は年貢町より西は漆原堅町通まで。
長6町22間・幅4間余、家数144軒。
東の方に静松寺通、西の方に明栄寺前通とて2条の小路あり。共に南は組町に通し北は黒川の南岸に出つ。
神社
稲荷神社
祭神 |
稲荷神? |
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相殿 |
伊勢宮 |
地主神なり |
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八幡宮 |
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勧請 |
不明 |
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この町の北頬にあり。鳥居あり。
神職 弓田山城
家伝を按ずるに、その先を飯篠山城守直家といい刀槍の術に長せり。後伊賀守長威斎と改む。神道流の始祖なり。直家より6世七郎太夫盛枝という者千世より伝るところ伊勢八幡の神體を奉し廻国の序この地に来る。葦名盛詮神體を勧請し(今の相殿の神なりという)盛枝を神職とせり。後讃岐守盛貞という者故有て弓田と称す。今の山城長郡は盛貞より7世の孫にて刀槍の秘訣及び伝書等家に伝う。
寺院
静松寺
静松寺通の西頬にあり。
臨済宗南青木組慶山村大龍寺の末寺なり。山號を長壽山という。
もと羽州最上郡にあり寛永20年(1643年)当寺の始祖西堂という僧壇越の縁を慕いてこの地に来り今の同上を開けり。
本尊観音客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
明栄寺
明栄寺前通の西頬にあり。
浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。
そのかみ鈍的という僧この地に庵を結で住せしが文禄3年(1594年)宗観という僧越後国より来りこの庵を修理しその後廃壊せしを寛永中(1624年~1645年)胸察という比丘再興せり。
本尊弥陀客殿に安ず。
福泉寺
この町の末南頬にあり。
浄土真宗西本願寺の末山なり。
慶長5年(1600年)法善という沙門草創せり。
本尊弥陀客殿に安ず。
林昌寺
この町の末北頬にあり。
栄長山と號す。常慶寺の末山曹洞宗なり。
慶長3年(1598年)安作という僧常慶寺の開山慶岩に従い越後国よりここに来り草庵を結んで住せり。これを当寺の祖とす。後松朔・尊説という2人の僧相続いて住す。
本尊釈迦客殿に安ず。
堅町の北に並び黒川に傍て片頬に住す。
東は天神橋の詰より、西は西横町の端に至る。
長6町20間余・幅の
広狭齊しからず、家数20軒。
黒川を俗に湯川と称する
故この名あり。
(
東黒川千石町分の地雑れり)
湯川端通と堅町との間にあり。
東は年貢町より西は静松寺前通に至る。
長1町6間・幅2間余、家数20軒。町名これに因るという。
天神橋の詰より南の奉田畝に通す。
長1町50間余・幅2間、家数31軒。
町の南端にて
本郡南青木組北青木村に界ふ(
南町分の地なり)。
天神橋
この町の北端黒川に架す。
長16間余・幅2間、勾欄あり。
天満宮の側なる故この名あり。
この橋を踰えて河原新町に出つ。
神社
天満宮
この町の北頬黒川に傍て一段高処にあり。
葦名直盛鎌倉より下向の時深沢天神を勧請しこの地に祭る。故に深沢天神と称す。当社の北なる黒川の邊をも深沢と唱ふ。
鳥居拝殿あり。
末社
- 山王神社 伊勢宮の南にあり
- 稲荷神社 山王社の南にあり
- 摩利支天神社 稲荷神社の南にあり
- 天王神社 摩利支天社の南にあり
別当 威徳院
境内にあり。
永命山と號す。郭内延壽寺の末寺天台宗なり。
当社勧請の時延壽寺の弟子英順という僧をして奉祭せしむ。これ当寺の元祖なり。その後数世を経て寛永12年(1635年)の頃灌英という僧住して荒廃を修理す。故にこれを中興とす。
本尊弥陀客殿に安ず。
年貢町天満宮の南より東にゆく通なり。
長1町9間余・幅2間計、家数5軒。
南は南青木組の
田圃に連なる。東の方に植留屋敷と唱える樹木の圃あり。
(
南町分の地雑れり)
最終更新:2020年09月30日 23:11