材木町

若松 郭外 材木(ざいもく)
大日本地誌大系第30巻 180コマ目
※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より

昔府下の南の諸山より材木を伐り鶴沼川に流し出すを売買せし商家郭内米代の西にあり。慶長14年(1609年)ここに移して材木町と称すという。

河原町の末より南に折れ、長10町17間余・幅5間、家数115軒。
末は東黒川材木町分の民居にて、西に廻り南青木組田圃(たんぼ)に出て家数77軒(即材木町分の地にて材木町の地雑はれり)。
町末より1町25間、本郡南青木組飯寺村に界ふ。
また西南の方田圃(たんぼ)に通ずる小路数条あり。

町の西を応湖川流る。

柳土堤

この町の末に続き西北より東南へ20町計斜に廻れる土堤なり。
元禄中(1688年~1704年)洪水ありて鶴沼・黒川の2水合し人家許多(あまた)を漂流せし故、同16年(1703年)の頃この土堤を築て水災の防とす。
高9尺計、上に柳樹を植ゆ。因て名く。

神社

住吉神社

祭神 底土男命・中土男命・表土男命
相殿 伊勢宮
   幸神
勧請 至徳年中(1384年~1387年)
この町の西にあり。
相伝て至徳年中大町肥前という者勧請すという(大町の条下に併見るべし)。
鳥居拝殿あり。
蚕養宮村佐瀬大隅が司なり

寺院

天照寺

この町の西頬にあり。
奇特山と號す。天台宗東叡山の末寺にて封内行人の頭なり。
開基の初を詳にせず。
旧郭内にあり、蒲生氏外郭営築の時今の新町の地に移し(共にその地詳ならず)、寛永中(1624年~1645年)またここに至る。
相伝ふ。天文の頃(1532年~1555年)権大僧都中圓という者中興し、天正14年(1586年)光海が時初て行人の頭となる。配下の行人4人あり本郡及び耶麻郡に散在す。また慶安の頃(1648年~1652年)天譽という僧中圓が跡を追て起廃の功あり。自ら五智如来の像を刻んで佛殿に安じ謹行怠ることなし。これに於いて東叡山の末寺となるという。
先に当寺に賜う処の綸旨あり。左に載す。
沙門形躰之事尤以神妙也以法可被至興隆之狀仍執達如件
  元和六年七月日   右中辨(花押)
      上人御釆

住吉神社

祭神 住吉神?
相殿 稲荷神社
勧請 天正18年(1590年)?
慶長6年(1601年)?
蒲生氏入城の初
境内にあり。
蒲生氏入城の初勧請せしが中ころ火災に値てここに移せり。
この町の西に社蹟あり、今のその処を住吉河原と称す。

秀長寺

この町の西頬にあり。
越後国蒲原郡瀧谷村慈光寺の末山曹洞宗なり。
縁起に、昔は隣松院とて耶麻郡猪苗代にあり。天文中(1532年~1555年)直孫という僧開基す。
蒲生氏郷就封の後その長臣町の左近をして猪苗代の城主たらしむ。隣松院の7世の住僧廓伝という者左近と方外の友たり且壇越の(ゆえ)を以て厚く遇せられしが、後数度の火災に罹り永住すること能わず去て府下に来る。この時左近遷て本州白川の城主たりしが深くこれを憂い、その主秀行に訴え今の地を請受て一宇を営み亡父秀長が位牌所とす。秀長が法名を龍雲院殿花陽秀長大居士と号せし(ゆえ)山を龍雲と号し寺を秀長と名く。時に慶長10年(1605年)の事なりとぞ(隣松院に伝わる所と異同あり)。
本尊釈迦客殿に安ず。

栄岸寺

この町の西頬にあり。
安養山と號す、下野国大澤圓通寺の末山浄土宗なり。
慶長18年(1613年)随天という僧開基す。
本尊弥陀客殿に安ず。

宗像神社

境内にあり



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