天寧寺町

陸奥国 若松 郭外 天寧寺(てんねいじ)
大日本地誌大系第30巻 165コマ目
※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記20』より

外郭の東にて天寧寺町口の郭門を出て東に行く道なり。
長5町34間余・幅3間余、家数140軒。
本郡南青木組天寧寺寺に近き(ゆえ)この名あり。

小路3条あり。
一は宗英寺通とて南の方宗英寺の門前に通る小路なり。
一は正教寺通とて北の方徒町正教寺の門前に通る小路なり。
一は石挽道とて北に指し本郡南青木組慶山村の方に通る道なり。寛文中(1661年~1673年)加藤氏城郭修理の時城東の慶山より大石多く切出しこの道にを挽いて郭内に運送せし(ゆえ)この名ありとぞ。
町末より10間余天寧村に界す。この町は天正17年(1589年)葦名氏の置きし所にて当時は冬坂(本郡南青木組院内村の地内にあり)を越え本州白川に通る街道なりしという。また東端黒川堰に架す石橋あり、萬年橋と號く(東黒川千石分の地なり)。

寺院

寶蔵院

この町の北頬にあり。
延命山と號す。真言宗博労町自在院の末寺なり。
文禄4年(1595年)権大僧都忍宥この寺を開けり。

大日堂

境内にあり。当寺の本尊を安ず。

地蔵堂

大日堂の東にあり。

宗英寺

この町の南黒川の岸にあり。
瑞雲山と號す。大沼郡冑組尾岐窪村龍門寺の末寺曹洞宗なり。
縁起を按するに、当寺もと葦名盛氏の影堂なり。天正8年(1580年)6月17日盛氏卒し瑞雲院殿竹岩宗関大庵主と諡し南青木組小田村の地に葬り(小田村の条下に併せ見るべし)影堂を造営して盛氏の木像を安ず。同17年(1589年)磨上の軍散して後義廣件の木像を奉じて常陸に赴けり。義廣卒して後観悦という僧またこの木像を携て本郡に帰り府下の市中に庵室を結で奉祭せしを(その地今詳ならず。また大沼郡南青木組穂谷沢村元慶寺に伝る所と少しく異同あり)葦名家の旧臣この地に散在する者力を(あわ)せて修理を加え瑞雲院と號すという。慶長7年(1602年)今の地に移れり。観悦遷化の後住職絶ること屢なり。元和6年(1620年)より初て瑞雲山宗英寺と号し相継て今に至りき。

制札

門外左にあり

客殿

8間に6間、西向。本尊大日。

盛氏影堂

境内にあり。

伊勢宮

境内にあり。

玉泉寺

この町の南頬にあり。
圓通山と號す。糠塚町松圓寺の末寺真言宗なり。
開基の年月詳ならず。
本尊大日客殿に安ず。

観音堂

境内にあり。


最終更新:2020年03月05日 16:32
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