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瑞雲山興徳寺

陸奥国 若松 郭内 本丁 五之丁 興徳寺
大日本地誌大系第30巻 108コマ目

京師妙心寺の末寺臨済宗なり。
相伝ふ。後宇多院弘安10年(1287年)大圓禅師の草創なり。
禅師諱は覺圓・字は鏡堂、西蜀の人なり。法を天童環溪に嗣く乃六祖惠能より21代徑山無準の孫なり。
弘安2年(1279年)相州*1鎌倉円覚寺の開山佛光禅師元より帰朝の時伴ひ来りしに、北條時宗が計いとして同州禅興寺及建長寺等に住せしむ。居こと幾も無しで移て洛の建仁寺に住せり。是所謂24派の一源なり。この地に来りしは弘安10年の頃という。

縁起を按ずるに、釈師初て本郡に来りこの地に紫雲の(あい)(たなび)くを見て佳瑞(かずい)とし八町四方の地を占て即時に経営を始めけるが不日*2にその功成て山を瑞雲と號し寺を興徳と名くと云う。
東鑑*3にに康元元年(1256年)北条時頼遁世のとき葦名光盛及び盛時・時連兄弟3人諸共に剃髪せし事見ゆ。是もと時頼と親眤(なじ)なるによるといへども光盛等もまた深く禅道に帰依せしとは見えたり。然らばこれ等を草創せしは光盛か孫盛宗の時にて祖父と同く禅道を信しこの禅師を請して当寺を開かしめしにや。
その後20年を経て徳治元年(1306年)9月26日禅師遷化せり。遺偈(ゆいげ)あり。
甲子六十三無法興人説任運自去來天上只一月
即塔を建て靈光と號す時に勅有て大圓禅師と謚す。
その後壽峯という僧その跡を続て当時に住す、是を第2世とす。
3世大圭が時に至て益荘厳を加へ凡叢林(そうりん)の宜く有へきところ(ことごと)く備はれり。
また霊岩山円蔵寺(河沼郡牛沢組柳津村)・聖会山禅定寺(同郷笈川組垂川村)・高岩山長福寺(安積郡福良組赤津村)・小谷山大慈寺(本郡南青木組小谷村)・聖福山宝泉寺(手明町)・久昌山少林寺(耶麻郡小田付組大沢村)等ややその法流を慕ひ末山となりしかは大圭を以て当山の中興とす。
葦名氏深くこれに帰依し、世々別院を立てるもの24宇各祖先の位牌を安ず。
多宝院・法界庵・正傳庵・福禄院(舊事雑考永享4年*4の記に葦名修理大夫盛政の法號にてその祠堂なるへしとあり)・持地庵・慶雲庵・瑞應庵・徳受院・謙亨庵・富陽庵・靜香庵・常喜院・能満庵・寶聚庵・茲視庵・海蔵庵・福春庵・香南庵・鶴栖院・大慈院・徳雲庵・松源院・長徳院(一宇名を失う)これなり。今は僅かに瑞應庵のみ残て余はみな廃壊せり。
また当時多く荘園を寄付し本郡石村・宮内村・天屋村・香塩村・大豆田村・闇川村・小塩村・大沼郡小谷村・相川村・沢村(今は詳ならず)・耶麻郡入田付村・熊倉村塔の諸邑みな税を納る。
その後應永23年(1416年)当寺を以て天下の十刹(じっせつ)に列しその名海内に震ふ。
同25年(1418年)鎌倉諸山より贈る所の疏あり(寶物の部に出す)。またその頃当寺の十境と称せしは通津橋(山門の前にありこの丁の南頬士屋敷内に橋柱残るといい伝う)・円通道場(即今の佛殿なり)・洪音楼(今の鐘楼なり)・霊光塔(開山堂なり)・宗鏡堂(今の法堂なり)・福禄聚院(この地今詳ならず)・龍華室(方丈なり)・萬年松(今なお方丈の前にあり)・甘露泉(この地今詳ならず)これなり。
その後100余年をへて32世速傳に至り妙心派となるという。
天正己丑の乱(天正17年=1589年。葦名家と伊達家の戦い)に諸刹多くは兵燹(へいせん)に罹りこの寺獨免るる事を得しといへども、伊達の兵士境内を侵掠し堂舎を破却し僧徒を追遂せしかば、時の住僧心安これを避て河沼郡勝方村勝方寺に遁る。ここに於て伊達当寺を以て假の居館とし諸の仕置を定む。
翌18年(1590年)豊臣家下向の時もまた当寺を以て廳事(ちょうじ)とす。氏郷封に就くに及て心安が高行あることを聞き、迎て再び住持たらしめ禄200石を付せり。当家風に就てまた200石を寄付す。
また36世逸傳が時、勅して紫衣を賜ふ。綸旨(りんじ)今に伝ふ(寶物の部に出す)。

制札

門外西の方にあり。
殺生伐木狼藉を禁ずる。
牓示(ぼうじ)にて府より建る所なり。
(以下、凡て寺院の制札と云うものこれに倣う)

総門

2間四面、南向。
扁額に「瑞雲山」の三字を題す。
『龍飛乙未孟秋吉日臨濟三十二世隱元書』とあり。

客殿

10間に8間、南向。
本尊、観音。正面に方丈の二字を榜す。
落疑に「張即之」とあり。

庫裏

15間に7間。

書院

8間に4間。

昌林院

客殿の東南にあり。
9尺四面、西向。
内に五輪塔あり。高9尺、地水火風空の五字を彫れり。
文禄4年(1595年)蒲生氏郷、京師に卒し、紫野大徳寺に葬り「昌林院殿贈参議高巌宗忠」と謚し、分骨を当寺に納む。因てこれを建つ。
今年年盂蘭盆ことに使番の者を遺して香奠を供え因國の主を禮し、寺僧をして歳時の勤懈らさらしむ。
(以下、寺院に香奠を供すと書するもの是に同じ)

鐘楼

殿の東南にあり。
2間四面、西面に額を懸け洪音と題す。当寺第8世審中、新に鐘を鑄て自ら銘を製し樓を洪音と號すという。今の鐘は寶暦13年(1763)住持祖春が時、冶工・早山安次をして改め鑄しむる所なり。徑2尺8寸。古銘左に載す。
日本國奥州會津縣瑞雲山興徳禪寺大鐘應永廿三季丙申六月十五日鑄造
 爲鐘之用 幽顯倶利 斷現世迷 除多刧睡
 煩惱所離 菩提玆至 一指半銭 助化策志
 二聽五觀 御神騖智 深契正縁 妙符眞理
 誓證佛身 廣濟群類 虚空有消 此願無棄
 法界可窮 斯文不墜
住持    審中叟謹銘   
大檀那 沙彌祐仁
 都寺 義乗
 化主 詰阿
 大工 圓乗
※訓点を省く

瑞應庵

総門を入て右にあり。
6間に2間、西向。

開山堂

客殿の西南にあり。
3間四面、東向。大圓・壽峯・大圭、3人の木像を安ず。
大圭の額に大なる創あり。伝え謂う。先にこの木像寺中守護のため毎夜境内を巡りしに、ある夜僕見咎て盗賊と心得、斧を以て傷けりと。

稲荷神社

境内にあり。

寶物

六祖画像 六幅
唐人筆。
十六羅漢画 十六幅
筆者詳ならず。
観音画像 二幅
一幅は牧渓筆。
一幅は筆者を知らず。
釈迦畵像 二幅
草座と出山の図。共に雪舟筆。
布袋書 一幅
雪村筆。
屏風 一雙
佛像の画、古法眼筆といい伝う。外に同人筆の佛画一幅あり。
僊人図 一幅
古画なり。
大般若経
全部巻末に「奥州會津野澤大槻圓福寺常住應永第七天庚辰六月廿日右筆金資良鏡」と記し、次に「經巻之内四而其一者當山四十世覺幻修補之」とあり。何の故に当寺に伝ることを詳にせず。
佛祖的傳 一軸
画像 一幅
開山大圓禪師の真影なり。
金剛経 一部
同禪師の眞蹟にて巻末に「正應戊子六月十七日覺圓謹題」と書せり。
語録 二巻
禪師相模禪興寺にある時の問答の語及び禪師の詩文を録せるものなり。
一休書 一幅
草書にて「虎嘯風生」の四字を書す。
法服 一領
そのかみ朝廷より開山禪師に賜所という。
袈裟 一領
同上。
硯 二枚
一は色深纁にして表に葡萄のかたを彫り、一は地緑にて紋黒く竹葉の如し。
鹿筆架 一枚
辛金なり。
蓮葉水滴 一枚
同上。
山路文鎮 一枚
普庵画像 一幅
賛あり。如左。
普菴寂感妙齊眞覺昭貺大徳恵慶禪師之正像天童山一環溪拝書印
観音画像 一幅
大圭が賛あり。左に載す。
人々観世音 心外莫追尋 如月眉間鑑 那方不照臨
金藏長(虫喰)義乗大師者予小師也仍需賛爲書偈與之而己
徳五甲戌結制後二日瑞雲大圭拝賛
紀年を書せし所、もと一字を缺けり。按ずるに大圭その生年を詳にせざれども遷化せしは應永七年(1400年)なり。是よりさき明徳五年即應永の改元にて甲戌に当たれば決して明徳五年(1394年)なるべし。
中峰國師書 一幅
その文如左。
(※略)
鎌倉諸山疏 一幅
その文如左。
(※略)
氏郷肖像 一幅
賛あり。左に載す。
(※略)
綸旨 二通
その文如左。
興徳寺住持職之事殊賜御前紫専佛法紹隆宣奉祈寶祚延長者天氣如此仍執逹如件
 慶長十二年丁未
    正月十日   藤原右少辨明廣
      逸傅 和尚禪室

妙心住持職之事所有 勅請也殊専佛法紹隆可奉祚寶祚延長者依 天氣執逹如件
 慶長十三年
   十二月廿三日  頭左中辨(花押) 
      逸傅和尚禪室 

寄付状 四通
その分如左。
會津於分領知行貳百石進之候全可有取納候恐々謹言
 慶長六
  十月十八日    秀行(判)
     興徳寺

   御知行御目録
          大沼
 貳百石       西田面の内
     以上 
 慶長六年     岡半兵衛重政 (花押)
  十月十八日   町野左近助旃景(花押)
     興徳寺

   寺領高目録之事
一 百六石八斗九升者    山之郡
               稲田村之内
一 九拾三石壹斗壹升者   同郡
               半在家村之内
 寛延五年
   十月十八日    明成(花押)
      興徳寺

會津山之郡之内を以知行高貳百石令寄附畢如目録全可有収納之狀如件
 寛永五年
   十月十八日    明成(判) 
      興徳寺

古筆掛幅 一軸
当寺にあつからさることと雖も、伝て寺寶とすれば此に附す。
(※略)


外部リンク等

最終更新:2026年03月27日 23:10
添付ファイル

*1 相模国

*2 近いうちに

*3 吾妻鑑。鎌倉時代の歴史書

*4 1432年