興徳寺


京師妙心寺の末寺臨済宗なり。
相伝ふ。後宇多院弘安10年(1287年)大圓禅師の草創なり。禅師諱は覺圓・字は鏡堂、西蜀の人なり。法を天童環溪に嗣く乃六祖惠能より21代徑山無準の孫なり。弘安2年(1279年)相州*1鎌倉円覚寺の開山佛光禅師元より帰朝の時伴ひ来りしに、北條時宗が計いとして同州禅興寺及建長寺等に住せしむ。居こと幾も無しで移て洛の建仁寺に住せり。是所謂24派の一源なり。この地に来りしは弘安10年の頃という。縁起を按ずるに、釈師初て本郡に来りこの地に紫雲の(あい)(たなび)くを見て佳瑞(かずい)とし八町四方の地を占て即時に経営を始めけるが不日*2にその功成て山を瑞雲と號し寺を興徳と名くと云う。東鑑*3にに康元元年(1256年)北条時頼遁世のとき葦名光盛及び盛時・時連兄弟3人諸共に剃髪せし事見ゆ。是もと時頼と親眤(なじ)なるによるといへども光盛等もまた深く禅道に帰依せしとは見えたり。然らばこれ等を草創せしは光盛か孫盛宗の時にて祖父と同く禅道を信しこの禅師を請して当寺を開かしめしにや。その後20年を経て徳治元年(1306年)9月26日禅師遷化せり。遺偈(ゆいげ)あり。
甲子六十三無法興人説任運自去來天上只一月
原文も参照の事)
即塔を建て靈光と號す時に勅有て大圓禅師と謚す。
その後壽峯という僧その跡を続て当時に住す、是を第2世とす。3世大圭が時に至て益荘厳を加へ凡叢林(そうりん)の宜く有へきところ(ことごと)く備はれり。また霊岩山円蔵寺(河沼郡牛沢組柳津村)・聖会山禅定寺(同郷笈川組垂川村)・高岩山長福寺(安積郡福良組赤津村)・小谷山大慈寺(本郡南青木組小谷村)・聖福山宝泉寺(手明町)・久昌山少林寺(耶麻郡小田付組大沢村)等ややその法流を慕ひ末山となりしかは大圭を以て当山の中興とす。葦名氏深くこれに帰依し、世々別院を立てるもの24宇各祖先の位牌を安ず。多宝院・法界庵・正傳庵・福禄院(舊事雑考永享4年*4の記に葦名修理大夫盛政の法號にてその祠堂なるへしとあり)・持地庵・慶雲庵・瑞應庵・徳受院・謙亨庵・富陽庵・靜香庵・常喜院・能満庵・寶聚庵・茲視庵・海蔵庵・福春庵・香南庵・鶴栖院・大慈院・徳雲庵・松源院・長徳院(一宇名を失う)これなり。今は僅かに瑞應庵のみ残て余はみな廃壊せり。また当時多く荘園を寄付し本郡石村・宮内村・天屋村・香塩村・大豆田村・闇川村・小塩村・大沼郡小谷村・相川村・沢村(今は詳ならず)・耶麻郡入田付村・熊倉村塔の諸邑みな税を納る。その後應永23年(1416年)当寺を以て天下の十刹(じっせつ)に列しその名海内に震ふ。同25年(1418年)鎌倉諸山より贈る所の疏あり(寶物の部に出す)。またその頃当寺の十境と称せしは通津橋(山門の前にありこの丁の南頬士屋敷内に橋柱残るといい伝う)・円通道場(即今の佛殿なり)・洪音楼(今の鐘楼なり)・霊光塔(開山堂なり)・宗鏡堂(今の法堂なり)・福禄聚院(この地今詳ならず)・龍華室(方丈なり)・萬年松(今なお方丈の前にあり)・甘露泉(この地今詳ならず)これなり。その後100余年をへて32世速傳に至り妙心派となるという。
天正己丑の乱(天正17年=1589年。葦名家と伊達家の戦い)に諸刹多くは兵燹(へいせん)に罹りこの寺獨免るる事を得しといへども、伊達の兵士境内を侵掠し堂舎を破却し僧徒を追遂せしかば、時の住僧心安これを避て河沼郡勝方村勝方寺に遁る。ここに於て伊達当寺を以て假の居館とし諸の仕置を定む。翌18年(1590年)豊臣家下向の時もまた当寺を以て廳事(ちょうじ)とす。氏郷封に就くに及て心安が高行あることを聞き、迎て再び住持たらしめ禄200石を付せり。当家風に就てまた200石を寄付す。また36世逸傳が時、勅して紫衣を賜ふ。綸旨(りんじ)今に伝ふ(寶物の部に出す)。

制札

総門

2間四面、南向。
扁額に瑞雲山の三字を題す。『龍飛乙未孟秋吉日臨濟三十二世隱元書』とあり。

客殿

書院

昌林院

鐘楼

瑞應庵

開山堂

稲荷神社


寶物

六祖画像

十六羅漢画

観音画像

釈迦畵像

布袋書

屏風

僊人図

大般若経

佛祖的傳

画像

金剛経

語録

一休書

法服

袈裟

鹿筆架

蓮葉水滴

山路文鎮

普庵画像

観音画像

中峰國師書

鎌倉諸山疏

氏郷肖像

綸旨

寄付状

古筆掛幅

最終更新:2020年02月29日 05:48
添付ファイル

*1 相模国

*2 近いうちに

*3 吾妻鑑。鎌倉時代の歴史書

*4 1432年