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久遠山實成寺

陸奥国 若松 郭外 上町 大町 實成寺(実成寺)
大日本地誌大系第30巻 122コマ目

この町の西頬、融通寺の北にあり。
法華宗久遠山と號す。嘉元2年(1304年)日尊という僧草創す。

初は今の郭内米代四之丁(その地を伝えず)に在て法華堂といい、文禄4年(1595年)高久組柳原村に移る。
忠郷の時、住持日尊という僧参詣の便よき地に霊場を開かん事を請い、元和9年(1623年)この地に移れり。

開山日尊は日蓮附法の弟子日興が徒なり。父は本州三迫の内玉野の主にて、曩祖(のうそ)は大織冠より出るという。
文永2年(1265年)に生れ、6歳にて薙染(ちぜん)す。
始は天台宗なり。17歳にて日興に帰依し法華宗となり高足の弟子たりしが、故有て勘気を蒙り、正安3年(1301年)富峯大石寺を辞して諸州を遍歴し、道場を草創すること36箇所に至れり。当寺はその第2の霊場なり。
後、富峯に帰り赦免を請う。日興妙法弘通(みょうほうぐつう)の功を善し血脉抄(けつみゃくしょう)を附属し師弟の契約を結ぶ事故の如しという。
康永4年(1345年)5月8日、洛の上行院にて遷化す。年81。
その後数世を経るといえども一本寺にて代々上人と称し他の推挙を受けず。
また当寺建立の棟札(今はその写なり。宝物の部に出す)によれば、藤原實成建立の寺故寺号もこれを用いしと見ゆ。然れども實成如何なる人にてここに至りしや詳にしがたし。旧事雑考に元弘建武(1331~1338年)の頃、神社仏閣の器物に藤原氏女と銘するもの多し。依て事跡を考るに、嘉元のころ(1303年~)は葦名遠江守盛宗の時に当り、盛宗の内室藤原氏にて先考の為に一宇を建しも知るべからずという。
(建武4年郭内諏方神社宝品の條下に論ずる所と異同あるに似たり。併せ見るべし)

制札

問外左にあり。

総門

東向。左右に番所を設く。内に腰掛あり。

本堂

7間四面、東向き。三方に庇椽あり。
十界勧請曼荼羅ならび祖師日蓮の木造及び画像を安ず。画像は駿河国本門寺生写の影像を模せる物なり。共に肥後守正容生母榮壽院寄付。

客殿

本堂の東北にあり。
7間に5間、南向。
題目多寶釋迦の三幅を本尊とす。
また、当寺開山日尊が作る所、日蓮の像21世日永が刻むところ日興日尊の像も安ず。

庫裏

客殿の西にあり。
13間に4間。

題目供養塔

客殿の東南にあり。
榮壽院の建立なり。

寶蔵

供養塔の南にあり。

鐘楼

寶蔵の南にあり。
3面四面余。
鐘、径3尺3寸。「久遠山實成寺二十二世日宥元禄八乙亥年七月日」(※元禄八年=1695年)と彫付あり。

三十番神社

客殿の東にあり。

塔頭

常詮院

本堂の東南にあり。

圓乗院

常詮院の東にあり。

覺成院

圓乗院の東にあり。

本量院

焼失して再建未だ成らず。

蓮浄院

同上。

圓養院

同上。

寶物

日蓮消息 二幅
(※略)
曼荼羅 一幅
日蓮筆。
同 二幅
一幅は落款に「元亨三年十一月十日日興」(※元享三年=1323年)と書し、一幅は嘉暦(虫喰)十二月六日日興」と書す。
共に花押あり。
曼荼羅 一幅
(※略)
日興申状 一幅
(※略)
日目書 一幅
(※略)
二箇相承 二幅
(※略)
血脉相承 三幅
(※略)
問答書 一軸
(※略)
日尊実録 一軸
(※略)
付属次第 一軸
(※略)
血脉抄 一軸
(※略)
棟札 一枚
(※略)
法系寫 一通
(※略)
佛舎利 一顆
(※略)
釈迦金像 一軀
木念珠 一連
(※略)
白珠 一顆
草花画 一幅
(※略)
花鳥墨画 一幅
(※略)
文書 四通
(※略)

外部リンク等

最終更新:2026年01月19日 16:02