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郭外 > 上町 > 大町

陸奥国 若松 郭外 上町 (おほ)
大日本地誌大系第30巻 119コマ目 郭外>上町>上之上 大町
大日本地誌大系第30巻 125コマ目 郭外>上町>上之下 大町
会津若松史 第2巻より

大町口の郭門を出て北にゆく通なり。
長6町50間余・幅4間余。末は糠塚町に通す。
家数150軒。

至徳元年(1384年)葦名直盛初て置きし所にて、もとは今の郭内の米代一之丁の地にあり。
蒲生氏郭の内外を分ち諸士と商売を別ちし時ここに移せり。

この地大抵府下の中央にて市民輻湊(ふくそう)する所(ゆえ)一之丁七日町に岐るる十字街に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。
因てこの街を札辻という。

四方の里程これより数を起す。

東は本州長沼領界まで8里3町余。
西は越後国新発田領界まで20里余。
南は下野国宇都宮領界まで21里16町。
北は出羽国米沢領界まで9里29町余。

道路凡て6条あり。
東を白川街道とし本郡郷原組原村駅まで3里18町7間。
西を越後街道とし河沼郡坂下組坂下村駅まで3里35町45間半。
南を下野街道とし大沼郡橋爪組関山村駅まで2里34町40間。
また
下野に通る裏街道は同郡同組藤田村駅まで2里19町29間。
北を本州二本松及び出羽国米在街道とす。二本松街道は耶麻郡川西組大寺村駅まで2里7町30間、米沢街道は同郡塩川組塩川村駅まで2里31町30間。

七日町博労町とに問屋を置て往来の荷物を運送せしむ。
この町の内五之町より北を大町名子屋町という。

火見櫓

札辻にあり。小鐘を懸けおき火災を報せしむ。

土産

画蝋燭

この町に齋藤八郎兵衛という蝋燭掛あり。近き頃この品を巧み出せしより今多く広まれり。筆翰竹筍の形真にせまり宮媛の淸翫とするに足れり。

寺院

弥勒寺

この町の西頬にあり。
諏波山龍華院弥勒寺

融通寺

弥勒寺の北にあり。
自然山融通寺

一桂院

この町の東頬にあり。
真言宗、京師智積院の松寺なり。寶珠山壽福寺と號す。
往古は郭内本三之丁にあり。文禄2年(1593年)ここに移る。
縁起に、永和2年(1376年)宥範という僧開基し、永禄年中に住持宥鎭というものあり、霊夢に感し、熊野山に参詣し牛王寶印を改作れりという。この頃葦名氏の祈願所にて世の用も重かりしゆゑ、宥鎭を以て中興開山とせり。
また彼か加持にて湧出る清泉あり。般若水と名く(實相寺の縁起に依る所と少しく異なり)。この水を以て自ら大般若経六百巻を書寫し当寺に遺せしか、天正己丑の乱(1589年)に失ふという。
(旧事雑考・天文二十二年(1553年)の記に二月二十五日大般若経書寫の功を卒へ。巻末に『生生世世値遇頂戴権少僧都宥鎭』と書せ由見ゆ)
慶長中蒲生氏寺産五十石を寄付せしとぞ。今は失へり。
千手観音を本尊とす。長1尺2寸の木造、宥鎭作という。庫裏に安す。

観音堂

境内にあり。

熊野宮

同上。

持寶院(持宝院)

一桂院の北に並べり。
東光山と號す。博労町自在院の末寺、真言宗なり。
開基の年月を知らず。
昔は郭内本二之丁にあり。
(今その地を詳にせず)
文禄元年(1592年)ここに移るという。
本尊大日、客殿に安す。

誓願寺

持寶院と北に並べり。
鳥居町龜福院の末山、真言宗なり。安養山と號す。
開基の年代詳ならず。
大永2年(1522年)幸仁という僧住せし時、平田石見盛範という者寺内に堂を建立し彌陀の像を安す。
その後中絶せしを、文禄2年(1593年)舜善という僧、地を蒲生氏に請ひここに移る(旧地を詳にせず)。因て舜善を中興とす。
本尊大日、客殿に安す。

實成寺(実成寺)

この町の西頬、融通寺の北にあり。
久遠山實成寺

東明寺

この町の末にあり門南にむかう。
当麻山東明寺

善行院

この町の東頬、町屋敷の地にあり。
真言宗最上山と號す。文禄元年(1592年)法海という僧草建す。
もとは江戸弥勒寺の末山なりしが、寛延3年(1750年)京師蓮臺寺の末寺となる。
本尊地蔵、客殿に安す。

旧家

簗田仙右衛門

※雄山閣版の風土記には「簗田仙右衛門」と記載してあるのですが、万翠堂版を見ると「梁田仙右衛門」となっていて国立公文書館アーカイブの方も「梁田仙右衛門」と書かれています。おそらく「梁」が正しいかと思われます。

先祖は梁田内匠俊信とて(始義種という)その先薩摩国伊佐郡を領して大町に住せし(ゆえ)世々大町を氏とせしという。
子孫左京盛胤(また肥前と称す)というものあり。康暦元年(1379年)葦名直盛に従て鎌倉より来りこの町に住し市祭を始む。また直盛の命に依て京師に至り、足利将軍義満より会津四郡ならび隣国までの商人の司たるべき由の仰を蒙り、帰郷の後住吉神社を府城の町口に勧請す。
材木町の西にある社なり。併せ見るべし)
新たに市場を開くことあれば、烏帽子直垂を着し商売を従えその地に至り市神を祭り見世割を定めしという。
世々の領主より与える所の文書、今に伝るもの多し。また葦名氏のころより両人の司を任せしにより他邦の出入等をさばきし事その家の日記(元和の頃(1615年~1624年)記せしものという)に詳なり。いまその一二を左に出す。今に至てこの街の検断(けんだん)*1を勤め屋敷地の諸役を免除せらる(凡総町の検断名主これに準じ屋敷地の課役を免除す故に毎条これを註せず)。

※略

古川近江

世々刀剣を鍛ひこの町に住めり。先祖は和泉守兼定にて織田家に仕ふ。その子淸右衛門某、美濃国より会津に来り葦名盛氏に仕ふ。天正17年(1589年)伊達政宗当郡に襲い入り翌年旧領に帰住の時、強て伴うべきよしを命ずれども辭して*2従わず。蒲生氏郷・上杉景勝が時も相つきて給事せり。蒲生家再封の時口量を給せしより、相続て今も扶持米を与え家人の列に次せしむ。
家に上杉家より与えし文書の写あり。左に載す。
    被下置知行目録
高合貳百石者      耶麻郡の内
                宮の前村
   此内七石四斗五升八合不足有
   此物成三石五斗六升五合   御藏より可足候
右可被任知行候但寄小物外也可爲拂藏納候被仰出候以上
    慶長三年戌亥
     十月廿六日    滿願寺仙右衛門判
        兼貞殿
※慶長3年=1598年

菅慶傳右衛門

この町の蝋燭掛なり。専属を傳右衛門某という。
文禄元年(1593年)蒲生家より商家一軒の諸役を免除せられりより今の傳右衛門信重に至て9世ここに住す。
家に古文書の写あり。左に載す。
當町蠟燭掛三拾人之事如前〻町諸役被成御免候條有其心得可被申聞候恐〻謹事
   後霜月廿八日      町野左近助判
               岡半兵衛尉判
        河野九朗左衛門殿
        石岡所右衛門殿


外部リンク等


会津絵ろうそく

天正年間、漆の実から採取した蝋を使ってろうそく作りが興り、その後、蒲生氏郷が会津民芸の域にまで高めました。菊・牡丹・梅などの艶やかな絵柄が描かれ、武家社会で珍重されました。いまも神仏用や結婚式で用いられいます。一本一本思いを込めて手作りされる絵ろうそくは、芯が太いため炎が大きく、あたたかみがあり、長持ちすることから、たくさんの人に愛用されています。


余談

若松市大町通の絵葉書 - なぬかまち.com デジタルアーカイブ
撮影時期は不明ですが大町四ツ角の写真が紹介されています。
最終更新:2026年03月29日 01:26
添付ファイル

*1 幕府訴訟制度の一系統で、刑事上の罪を検察、断罪すること

*2 「辞して」の旧字体。断る、辞退する