※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より
この町慶長の頃(1596年~1615年)まで黒川の河原に傍て南北へ斜に家居す
故に名けり。
寛永8年(1631年)大水有て人家
悉く流亡せり。因て今の地に移りし東西の通とせしが、
猶旧名を用いて河原町と称す。
東は大橋の詰より西は
材木町に至る。
長3町26間・幅4間余、家数72軒半。
町東を黒川流れ、川に傍て西南の方河原町新丁に出る裏道あり。
大橋
町の東端に架す。
長15間・幅3間、勾欄あり。
この橋を経て
中河原町及び
横丁に通す。
寺院
大法寺
この町の北頬にあり。
山號を妙了山といい甲州身延山久遠寺の末寺華宗なり。
寛永20年(1643年)日如という僧羽州最上より来り当寺法を草造す。後正保元年(1645年)日如甲斐国身延山に至り彼寺の末寺たらん事を請ふ。この時久遠寺の貫主日祝は日如と同州の産にて旧好ありしかば喜て日如に告て、今吾が宗徧く海内に広まるといえども奥羽の地最微にして未だ化し易からず、今より後努めて佛化を敷き祖師の法流を弘大にせよとて白紋の袈裟一領を与え且待するに賓客の體を以てし永々寺格となさしめ、また別に法衣一襲・本尊の掛幅一軸を与て帰しぬ。今に至て寺珍とす。
制札
門外西にあり。
客殿
6間に5軒、南向き
三十番神社
客殿の西にあり
最終更新:2020年03月24日 00:05