会津郡楢原組水抜村

陸奥国 会津郡 楢原組 水抜(みつぬき)
大日本地誌大系第31巻 97コマ目

府城の南に当り行程6里26町。
家数13軒、東西1町・南北20間。
東は倉谷村に続き、南は戸石川に()ひ、西北は山に倚る。

村中に下野街道あり。

西7町・北3町、共に倉谷村の界に至る。
南30間小池村に界ひ戸石川を限りとす。その村まで8町。

山川

高倉山(たかくらやま)

村より戌亥(北西)の方9町にあり。
頂まで1里計。
衆峯に秀つ。

戸石川

村南30間にあり。
倉谷村の境内より来り、東に流るること5町、また倉谷村の界に入る。

神社

高倉神社

祭神 高倉宮以仁王の霊
鎮座 不明
村より戌亥(北西)の方6町、高倉山の麓にあり。
鳥居あり。
明應9年(1500年)に記せしという当社の勧進帳あり。その趣によれば、高倉宮以仁王の霊を祭しと見ゆ。具文明應の頃の物とは見えざれども、神職の家に伝わるままに左に録す。
高倉大明神旧記
夫れを尋ねれば、大日本陸奥会津郡南山(みなみやま)倉谷村の高倉大明神は、人皇八十八代の皇弟高倉宮を勧請する所歴然なり。
古老相伝ふ。高倉宮と源三位頼政は、王政創業の(はかりごと)を起し、治承四年宇治に於て合戦数度に及ぶと(いえど)も、天運は時至らず、三軍の利あらず。為めに陸奥の探題何某(なにがし)()ふ者を頼み、東海道より陸奥に(おもむ)く。檜枝岐山を通り南山に入り、関山峠の麓に至る。時に将軍の令高倉宮を追補する者をして、千金を以て賜ふと天下に唱ふ。陸奥国に於ては探題並びに大寺三千坊、其外欲心熾盛の夷賊等、忽ち守護の志を忘る。却って(にわか)に怨敵の思ひを起し、数千の兵を(ひき)ひて関山の麓に寄せ、神居を圍み稲麻竹葦(とうまちくい)の如し。群臣百官(すべ)て手の()く所無し。時に天皇恐怖の色無く、威儀厳然として群臣に()ひて()はく。
時世末代に及ぶと雖も、日月未だ地に落ちず。朕、日の神の苗裔として天の神譲りを受く。夷賊夫れ我を如何せん。
云ひ(おわ)って(みずか)ら天に向ひ祈誓せり。暫らく有って青天騒ぎ()き曇り、震動雷電す。百千万の雷敵軍の頭上に落ち()くるが如く、時々車輪の如き火玉散乱す。(世俗今に至って火玉峠と謂ふ。)夷賊恐怖し再び山下に近づく者無し。然りと雖も、天皇(また)倚頼する者無く百事無聯(ぶりょう)なり。時に近隣の村民大勢(あつま)って假の御神殿を建て、天皇を安置し奉り之を尊崇すること神の如し。都の大内を借り名づけて大内の里、倉谷の里と()ふ。(倉の字を借り用ふ。)朝暮に奉侍して(なお)赤子の親を慕ふがごとし。天皇(また)里民の志を感じ、(みだ)りに以って怒らず、愛情(なお)親の子に於けるがごとし。留止すること一年餘、天皇群臣に()ひて()はく、
朕、不運にして帝位を(ゆず)り、辺境に漂泊すと雖も、倚頼の臣有れば後栄(なお)頼み有るがごとし。今此地を察するに塞土に通じ地陜隘なるは、之れ英雄武衛の臣無きが如し。何を以って後栄をを期し、何れの時開運の日を待たん()。久しく此の地に留る可らず
と云う。即ち群臣に(みことのり)して近隣の村民を召し、自ら()って()はく、
我天神の苗裔(びょうえい)たるを以って汝等里民の尊崇すること外に異なり、情に(いつくし)むこと親の如く、実に其の志厚く其の情や切なり。永劫を()と雖も忘れ難し。然りと雖も今天運の時至らず、之れを如何とも()可き者無し。今都に帰らんと雖も一物として汝等深厚の恩に謝す可き者無し。()し天の寵霊を得て再び帝位に昇らんか、汝等の為に厚く報答せん。若し運命薄くして溝壑(こうがく)に転ずると雖も、(あに)其の志を忘れん()。我末代汝等の氏神と()り、子孫繁茂と息災延命を守らん。
云い(おわ)って龍眼(りょうがん)は御涙を浮かべ、羅綾(らりょう)の御袖龍鐘(りゅうしょう)として神輿(しんよ)に乗ず。村民等皇恩の至厚に感じ、(しこう)して涕泣(ていきゅう)悲哀すること赤子の親に別るるが如し。恋情留め難く御跡を慕ひ、神輿(しんよ)(にな)伊名(いな)に達して相別れて帰る。時に於いて村民等甘棠(かんとう)の遺愛に(なら)ひ、(しこう)して一宇の小社を建立(こんりゅう)して之を祭る。官所の府に達して、高倉大明神と号し奉る。
(それより)爾以来星霜(およ)そ三百有餘年、里民今に至って春秋の祭祠時を以ってし、之れを思ふに蘋繁(ひんぱん)として(いま)すが如く礼奠(れいてん)怠り無し。一病一疾一大事有る者誠心祈願の(とど)く有れば、則ち感応すること影の如く(かたち)に随ふ。所願成就せざる無し。嗚呼(ああ)大なる哉。仰ぎ思へば神徳の大なること、伏して神化の跡を察すれば、朕跡存せず霊妙側(測)られず、(いわ)んや猥る可きをや。魏々(ぎぎ)たる(かな)神、堂々たる(かな)化、恐々敬々すべし。
然るに旧社数百年の星霜を()(まさ)に朽腐せんとす。中ごろ修理を加ふると雖も、其後年月を経ること久しく、其の趾敗壊し柱礎傾廃す。風雨鳥鼠の為めに点汚せらる。予(たまたま)神職の家に生まれ、寝食も之を思ひ、寤寝も之れを痛み、朝夕之れを看るに忍びずと雖も、家貧しくて自力に及び難く、止むを得ず十方信心の他力に請ひ、造営を願再せん而巳(のみ)。信心の(ともがら)、仰ぎ願はくば上は神国冥慮の慈悲に報い、下は和光同塵するを思はば、神孫の繁茂之れ測らざらん。然れば則ち直ちに深神霊妙の神道に副はん。()って多少に限らず涯分を(はか)り、(しこ)うして十方信心の他力を請はん。然れば則ち神前に於て、天長地久、天下泰平、萬民快楽、息災延命、五穀成就の祈願、精誠()きんず可き者なり。()って(くだん)の如し。
  明応九年 日
(明応九年=1500年)

神職 星河内

先祖は八瀬彌久太とて治承之頃より当社の神職たりしという。後に八瀬を改て星と称す。元文の頃(1736年~1741年)十太夫直国という者あり、今の神職直忠が3世の祖なり。

藤巻神社

祭神 面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)
鎮座 不明
高倉神社の西にあり。
星河内これを司る。


村名の由来:
昔から水に恵まれず困っていた。いつの頃からか高倉山の麓から水を引き上手に利用したことから水抜と名付けられた。


高倉神社と藤巻神社

水抜地区から大内宿に行く県道131号下郷会津本郷線のこの辺りに階段と旗竿があります。
試しに登ってみた所、結構長い山道が続いていました。途中鳥居がありますが額字からは先に何があるのか判断ができません(「奉?」と書かれていました)。
先は山道が左右(東西)に別れており両方の道の先にはそれぞれ社が鎮座していました。ただ何の建物か判断できるものがなく詳細は不明です。
両方の社の中には人形の彫り物が奉納されているようです。

東の社の中

西の社の中

推測になりますが…。風土記の内容を当てはめると東の社は高倉神社、西の社は藤巻神社ではないでしょうか?

追記(2020/10/13)
東の社の写真を見ると中に明治11年11月12日の日付と以仁親王と書かれた札があります。高倉神社で確定でしょう。
おおよその位置
宗教法人の登録情報(福島県法人課宗教法人名簿より)
認証番号 法人名 所在地
434 高倉神社 下郷町大字栄富字境窪戌291
2353 藤巻神社 下郷町大字栄富字境窪戌293
最終更新:2025年07月11日 20:43