※国立公文書館デジタルアーカイブ「新編会津風土記26」より
鎮座の年代詳ならず。
或伝、昔暮春の初め農夫ありて飯盛山の麓を耕せしに、紫雲忽ち嶺上に起こり、その中に妙相端厳の霊妃あらわれ数多の童女を従え漸々に山を下る。農夫怪み恐れ茫然として立り。霊妃曰く「怪しむこと勿れ。この山は究竟摩尼の霊場にして四天相應の天勝区なり。我跡をこの地に垂て邦家安寧市民鎭護の神たらんことを欲す。汝随喜の心あらば、我がために力を竭くして一宇を爰に営むべし」と。農夫感涙肝に銘じ再拝して「草創のことは資財に乏しければ小人の能弁ずる所に非ず。この村に石部・堂家・石塚の三家あり、皆豪富の世家なれば能くその事を弁すべし。願くは神力を以てこの三家に命じ給え、小人最力を竭くすべし」という。霊妃うなづきて「汝謹で我言を三家に伝ふべし。我もまた命ずるべし」とて山に升ると見えしが、その行処を知らず。農夫奇異の思いをなし、明る日三家に詣でその事を談ずるに三家も昨夜霊夢の告に符号せりとて、力を勠せて永徳年中(1381年~1384年)にこの社を創造せりとぞ。
霊妃は宗像神の化する処なりという。造作の始め、童女赤小豆飯を器に盛り牛に駄して来り与ふ。役夫集り食え共盡きず。童女牛を牽て南に行くこと数十歩にして見えず。因て後人その地を封じて牛墓という山を飯盛と呼ぶと言えり。
元禄13年(1700年)肥後守正容、飯盛山周廻580間余の地を寄付せり。
鳥居
両柱の間9尺
制札
鳥居の東、本社へ行く路の側にあり。
御手洗
制札の東にあり。
伏糟を以て地中より泉を引き銅にて龍首を造り高く懸けて水を噴かしむ。
下に石の盥を設け盥水所とす。
南に並んで石段あり。東に向て登り本社に行く。
大佛
御手洗の東、一段高き処にあり。
高5尺系の石壇を築き銅像の釈迦を安ず。長9尺蓮花座の上に露座す蓮花座像にて高3尺4寸。明和4年(1767年)に鑄る。
二王門
本社と石階との間にあり。
5間に2間。
本社
2間に1間半、西向。
神體木像、長1寸5分。
また宇賀神の像をも安ず。肥後守正容寄付せり。
円通三匝堂
二王門の南一段高き処にあり。
六稜にして三廥なり。下にて差渡し3間半、高8間半。漸々に盤て頂に至りまた漸々に降りて下に還り、栄螺の殻中に似たるゆえ栄螺堂ともいう。升降り道を異にす。
本尊弥陀、また三十三観音の木像を安ず。
寛政8年(1796年)造立せり。
宇賀神堂
円通三匝堂の西にあり。
2間四面。背後に3間に2間の高台を架す。近くは城市より遠くは西郊の山水を一囑し、春秋の際幽賞多し。
上人壇
飯盛山の北にあり。
周15、6間・高1間余。上に長5尺系の三角なる石塔を建つ。何れの頃にか中より折れて2となる。上に梵字の如きもの3、下に文字あり。剥落して読べからず。由ある人の墳墓なるべし。
別当 政宗寺
本社の戌亥(北西)にあり。
開基の始を知らず。山號を飯盛山と称す。府下
五之町實相寺の末寺臨済宗なり。
元禄13年(1700年)より境内6斗3升余の地、年貢を免じ与えり。
本尊弥陀客殿に安ず。
最終更新:2020年03月08日 12:28