会津郡滝沢組滝沢村

陸奥国 会津郡 滝沢組 滝沢(たきさは)
大日本地誌大系第31巻 12コマ目

村東の山中に白糸滝とて佳景(かけい)の瀑布あり。この村その下流にある(ゆえ)滝沢村という。
旧3町計西にあり。文禄4年(1595年)今の地に移せしという。

府城の東北に当り行程26町余。
家数57軒、東西4町2間・南北1町27間。
白川街道を夾み南北両頬に住す。
東は山に倚り西は牛墓村にて続て1村の如く。
南北は田圃(たんぼ)なり。

村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。

東13町54間金堀村の山界に至る。その村は寅(東北東)に当り17町50間余。
南4町30間本郡南青木組慶山村の界に至る。その村まで9町10間余。
北11町12間長原新田村の界に至る。その村まで17町30間。
また
戌(西北西)の方9町10間藤原村の界に至る。その村まで11町10間。

村中に1里塚あり。

端村

中島(なかしま)

本村の北3町40間余にあり。
家数4軒、東西25間・南北25間。
4方田圃(たんぼ)なり

北滝沢(きたたきさは)

中島の北1町にあり。
家数26軒、東西1町59間・南北1町34間。
4方田圃(たんぼ)にて、東西北は山に近し
小名 大杉新田(おほすぎしんでん)
北滝沢より辰(東南東)の方1里余、山奥にあり。
家数4軒、東西40間・南北40間、高山の中腹にあり。
昔この地にに大なる杉樹あり。因ってこの称ありとぞ。

金堀小屋

石盛(いしがもり)

本村より丑寅(北東)の方28町山中にあり。
家居1軒渓流に傍で住す。
慶長8年(1603年)この地の山より金を採初め、年を(かさ)ねて繁昌(はんじょう)し、諸国より人多く集まり小数1700軒に至れり。その後盛衰あれども寛文の頃(1661年~1673年)までは(なお)56軒男女200余人集まれりとぞ。

山川

飯盛山(いひもりやま)

村より辰巳の方にあり。
頂まで3町50間、松樹雑木茂れり。
西の麓に宗像の神社あり(宗像神社の条下に詳なり)

法眼山(ほうげんやま)

村より辰巳(南東)の方14町30間にあり。
頂まで20町余。
南は原組赤井村の山に連なる。
葦名盛隆の頃(1580年~1584年頃か?)糟尾宗頥という医師あり。先祖は野州の産にして松浦氏なしりが、糟尾村を領せるより糟尾を氏とせしとぞ。宗頥盛隆のために織田信長の方に使せしに旨に称て法眼に任ぜらる。(よっ)て盛隆もその労を賞しこの山を与へき。故にこの名あり。
松樹多し。

高山(たかやま)(大杉山)

村より辰巳(南東)の方1里にあり。
頂まで29町計。
東は赤井村の山に続く。
松樹雑木多し。
境内にこの山に並べる高山なし、因って名くという。
また、大杉山ともいう。

大塚山(おほつかやま)

端村北滝沢の西1町40間余にあり。
高48間、周10町。
離れ山にて田圃(たんぼ)の中にあり。
いつの頃にか大塚(なにがし)という者住せる故名けりという。また、葦名の頃石塚某という者も住せしとぞ。
北の腰に馬場・的場等の(あざ)残れり。また、昔南の中腹に蝦夷穴(えぞあな)とて9尺4方計の洞1つ、小き洞5つありしに漸々に崩れて貞享の頃(1684年~1688年)まで尚1つありしとぞ。今はそれも崩れて只跡のみあり。

一箕山(いつきやま)

村より戌亥(北西)の方6町30間田圃(たんぼ)の中にあり。
高10間、周6町50間。
頂に八幡宮の社あり(八幡宮の条下と照見るべし)。

小山(こやま)

北滝沢より寅(東北東)の方2町にあり。
頂まで20間計。
西南の方限界広く土地草木美なる故、肥後守正之この地を択で士民の葬地とす。
元禄中(1688年~1704年)肥後守正容、中峯に標石を建つ。高6尺に1尺3寸四面。
銘あり。その分如左
自是南至畠境貳十一間自是北至畠境貳十貳間自是東至瀧澤山境百七間自是西至小敷澤路百貳十五間
右小山葬地界限寛文四年甲辰九月晦日
先君中将源公始教士民禁火化仍所置之者也元禄四年辛未六月廿八日表之
※原文も参照のこと

石盛山(いしがもりやま)

金堀小屋石盛の西にあり。
高13丈、周3町余。
巨石を積み累ぬるが如く形状螺髻に似たりとて螺髻山(かさつふりやま)ともいう(かさつふりは蝸牛の方言なり)。
西南の隅より小径をつたえて頂に至の外に攀るべき路なし。
4面に対し並べる諸山は皆山勢(さんせい)陵夷(りょうい)にて松樹叢莽(そうもう)なれども、この山のみ巉巌(ざんがん)孤立して大樹なく草木稀に巌間(いわま)にあり。
近隣に並びなき奇観(きかん)なり。
麓はこれより北を()西に廻って数町の間は大抵平地の如くにて、漸々(ぜんぜん)に西へ卑し。南は山の尾引いて1町計隔り並べる山に続く。北は渓水の清流に臨み風景麗秀(れいしゅう)勝境(しょうきょう)なり。
昔は(おびただ)(し)く良金を産し麓の渓流にも砂金ありしとぞ。因って200年来抗を穿ちし処(みね)房の如し。この山多く好金を出せしは蒲生秀行の時慶長8年(1603年)より8ヶ年を経て蒲生忠郷の時同15年(1610年)まで。(こう)ずる処288萬両に及ぶ。されども水ありて穿つに便り悪かりしを、松澤傅兵衛という者水を抜き坑を穿つ。金また多く出て同16年(1611年)より元和6年(1620年)まで10ヶ年の間72萬500両を出せり。前に通ずれば360萬500両。これ蒲生氏2代の内に得たる処の総額なり。加藤氏に及で前後の貢ずる処640萬8030両に至る。寛永20年(1643年)に肥後守正之封に就てより万治元年(1658年)まで16ヶ年の間に1萬6438両2分、吹金38貫481文目を貢ず。寛文4年(1664年)江戸より道喜という者来り、再び坑を穿ち同10年(1670年)まで7ヶ年の間に1萬4000両を貢ぜりという。

滝沢坂(たきさはさか)

村端より丑寅(東北)の方に登る白川街道なり。
麓より登ること16町、頂きを九折峙(くのおれじ)という。
金堀村に界ふ旧の往還は、この村より南20町余を隔て本郡南青木組院内村より背炙峠(せなかあぶりとうげ)(加藤嘉明、冬坂と改む)を()えて原組原村に出しを、寛永4年(1627年)この道を改め(ひら)けり。されども秋雨の折は泥濘(でいねい)*1深くして駄馬通せず旅人往来に苦しめり。(よっ)て加藤嘉明の時寛永9年(1632年)より8万人の人夫を以って泥土を除き2尺余3尺計の石を敷しむ。同11年(1634年)に功成れり。これより今に至り人馬往来に患なし。
この坂より西に連なる支峯2あり。南を堂作山(たうがさくやま)(また堂柵に作る)という。北を柏木山(かしはきやま)という。里人この山より(まぐさ)をとる。

村北畠中にあり。土人名(ほとけ)と称ふれども佛像にもあらず。
高4尺計の野面石なり。(おこり)を憂るものこれに祈れば験ありとて昔より崇敬す。

滝沢川(たきさはかわ)

源を赤井村の山中高清水(たかしみづ)という処に発し、山間を戌亥(北西)の方に流れ、諸渓を受け白糸滝に注ぎ、飯盛山の麓に至り、屈曲して北に流れ、村中を過ぎ、戌亥(北西)流る。
この村の境内を系経ること凡2里10町余、藤村村の界に入る。
広4間余。

雁打沢(がんうちさわ)

村より寅(東北東)の方31町にあり。
鴻雁(こうがん)昿平(こうへい)の里地より猪苗代湖に浴するに多くこの沢を過ぐ。
昔は風烈き日竹竿にて雁を打落し獲しという。
天正18年(1590年)豊臣家当国に下向の時、これを見んとて馬上10騎計にてこの村の畷道(なわてみち)*2を通り稲刈る農夫を傍近く召し、この所に案内せしめられしとぞ。
今は小綱を投じて(かも)を取る。

白糸滝(しらいとがたき)

村東9町20間山中にあり。
高8丈余。
急流崖上より遥かに断岸に(そそ)(ぎ)て白糸を垂るが如し。故に名とせり。(すこぶ)佳景(かけい)なり。
また、この奥10町計を隔て二滝(にのたき)三滝(さんのたき)とて2あり。
共に高3丈計。

土産

石盛山に産す。良金なり。出ること稀なり。
無名異同所に産す。

石膏

同所に産す。効能唐物に均し。

松蕈(まつたけ)

山中所々に産す。美味なり。

雚菌

同上

関梁

大橋(おほはし)

村中にあり。
長4間余・幅2間、勾欄あり。
滝沢川に架す。

水利

戸口堰(とのくちせき)

河沼郡代田組八田野村の方より来り金堀村下居合村長原新田村の境内を過ぎ、またこの村の境内に入り田地に灌ぎ牛墓村の方に注ぐ。

端村・北滝沢の北3町50間にあり。
東西42間・南北34間。甗澤堤(こしきさはつつみ)という。
郷原村の田地に灌ぐ。
寛永6年(1629年)築く。

神社

八幡宮

村より戌(西北西)の方6町にあり。
八幡宮(滝沢村)

宗像神社

村より辰巳(南東)の方飯盛山の西の麓にあり。
宗像神社(滝沢村)

三島神社

祭神 大山祇命
鎮座 不明
村より辰巳(南東)の方2町50間にあり。
伝え言う。何の頃にか比丘尼2人金像の神體(しんたい)3軀を屓来り、里人に告て曰く「これ三島明神の尊像なり。よく正法を資護持し国家を鎮撫し給う神霊なり」とて、衆人を勧て社をこの地の山頂に剏建し神像を安ず。この時よりこの山を堂柵(どうがさく)と称せり。比丘尼は落城の後行く所を知らず。
後に石部某という者深く尊崇せり。されども山高く路嶮く参詣の便り悪しとて社を麓に移せりと。
承應中(1652年~1655年)に至ては社頭の廃壊極り只礎のみ残りしを里民再興せり。

別当 常楽院

本山派の修験なり。
明和4年(1767年)弁掌という者当社の別当となる。厳重祐堅が父なり。
寶物
笈 1荷。
弁慶が物なりという。
高2尺8寸。幅下にて2尺2寸、上にて1尺9寸5分。深1尺3寸。
前面は黒漆の堅地塗にて菱と草木をひら彫にし花は朱漆をもて彩る。心は魚子流金にて花と葉に銅の鑣を打て模様をうつす。極めて古雅なり。その図左に載す(※略)。

諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 諏訪神
   山神  4座
   稲荷神 3座
   伊勢宮 2座
   天子神
   若宮八幡
   三宮
   御嶽神
   地神
   権現
鎮座 不明
端村・北滝沢にあり。鳥居拝殿あり。
郭内諏訪神社神職佐久上総が司なり。

熊野宮

祭神 熊野神?
相殿 伊勢宮 2座
   稲荷神 4座
   月崇神
   明神
   権現
   蛇神 2座
鎮座 不明
北滝沢の西2町50間、大塚山の頂にあり。
鳥居あり。郭内諏訪神社神職諏訪近江司なり。

寺院

妙国寺

村より戌(西北西)の方3町40間にあり。
山號を寶光山と称す。享保中(1716年~1736年)今の山號に改む。法華宗府下滝沢町妙法寺の末寺なり。
この地は妙法寺の開山日什が墓所なり。明徳3年(1392年)日什寂せし時、父母の遺跡なるによりここに葬り、弟子日仁この寺を草創して住し朝夕香花を供せしという。

日什塔

五輪なり。『日什大聖人明徳三壬申年二月二十八日』と彫付あり。
前に慶長中(1596年~1615年)建てる所の堂あり。即日什荼毘所の迹なりという。
棟札あり。左に載す(※略)。

成就院

村中にあり。
揚柳山と號す。
府下鳥居町亀福院の末寺真言宗なり。
旧村北にありしを慶長の始め(1596年~)見宥という僧住せし時この地に移せり。
本尊地蔵を客殿に安ず。

古跡

館跡2

一は村北3町20間にあり。葦名の頃石部治部大輔某という者住せりという(年代詳ならず)。
一は端村・北滝沢の村中にあり。東西30間・南北29間。葦名の頃、堂家某という者住めりという(年代詳ならず)。今は百姓家となり。土居の形存ぜり。

石部桜(いしべさくら)

館跡の北10間計、菜圃(さいほ)の中にあり。
石部治部大輔が庭中の桜樹(ゆえ)この名残れりという。
樹根の周り3丈6尺。数株となりて四面に螺れり。高もまた3丈6尺枝葉の庇う処20間計。
寛文の風土記に枝葉扶疎(ふそ)四に敷くこと数歩と称すれば、その古木なることしるべし。今なお枝茂り花艶ばしく香風数十畝に満てり。春月には賞花の人多し。誠に500年外の物にして佳観(かかん)比なし。ここに至るもの懐古の情おこり、今詠鮮なからず。また(みだ)りに人の攀折せんことを厭て柵を(めぐ)らし禁止の札を側にたてり。

船石(ふないし)

滝沢坂の上、街道の西側にあり。
縦横丈余の巨石にて(かたち)船に似たり。府下鳥居町に鎮座ある伊舎須弥明神乗給ひし船の化する所なりといい伝う。

産清水(うぶしみず)

村より戌(西北西)の方6町余、畠中にあり。
周1間計、日什誕生の日この水を汲て洗沐す。因て名くという(日什が条下に詳なり)

村より丑寅(北東)の方4町、菜圃(さいほ)の中にあり。
9つ並べり。共に高5尺・周3間計。九壇という。由来詳ならず。

釈門

日什

二位僧都と称す。
この村の住石塚某という者の子なり。
父母嗣子無ことを憂い八幡宮に祈誓して懐胎す。母産子の安穏を祈らんとて正和3年(1314年)4月28日に八幡宮に参詣せしに、社前にてその兒を産めり。その時清水(たちま)ち湧出てしかば、その水を汲で兒を洗ひしという。
その兒幼年にて父母に後れ7歳の時より出塵の志あり。後に薙髪して僧となり玄妙と称し、比叡山に登り天台の扇を究め兼て諸宗に通ず。満山の僧侶器重せざる者なし。
その後故郷に返し羽黒山東光寺に住し講筵を開く。遠方より来り学ぶ者常に500人に余れり。
68歳の時始て日蓮が開目抄如説修行抄を熟読し、法華に帰依し宗旨を易え名を日什と改めき。且日蓮が法末祖師の本意を失わんことを憂て、上京して勅許を得、別に一派を立て洛陽妙満寺・遠州玄妙寺・本郡妙法寺を開基し弟子日仁・日義・日妙に付属す。
明徳3年(1392年)2月28日妙法寺にて寂す。歳79歳。今の妙国寺の塔その墓所なり。
日什が弟子専ら弘通を務む。因て信仰する者多く、武・総2州の間に700箇寺を建立すという。
日什置文を3弟子(日仁・日義・日妙)に付す。名で三紙一通という。その文如左(※略)


最終更新:2020年03月09日 08:34

*1 泥濘:ぬかるみ

*2 田の間の道。あぜ道