上町

陸奥国 若松 郭外 (うは)
大日本地誌大系第30巻
上町 上:119、125コマ目、上町 中:134コマ目、上町 下:145コマ目

※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記15』より

大町より以東の町々を総て上町と称す。
また甲賀町より東は文禄年中(1593年~1596年)新に置く所(ゆえ)新町とも称す。

(おほ)

大町口の郭門を出て北にゆく通なり。
長6町50間余・幅4間余。末は糠塚町に通す。家数150軒。
至徳元年(1384年)葦名直盛初て置きし所にて、もとは今の郭内の米代一之丁の地にあり。蒲生氏郭の内外を分ち諸士と商売を別ちし時ここに移せり。
この地大抵府下の中央にて市民輻湊(ふくそう)する所(ゆえ)、一之丁と七日町に岐るる十字街に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。因てこの街を札辻という。

四方の里程これより数を起す。
東は本州長沼領界まで8里3町余。
西は越後国新発田領界まで20里余。
南は下野国宇都宮領界まで21里16町。
北は出羽国米沢領界まで9里29町余。

道路凡て6条あり。
東を白川街道とし本郡郷原組原村駅まで3里18町7間。
西を越後街道とし河沼郡坂下組坂下村駅まで3里35町45間半。
南を下野街道とし大沼郡橋爪組関山村駅まで2里34町40間。
また下野に通る裏街道は同郡同組藤田村駅まで2里19町29間。
北を本州二本松及び出羽国米在街道とす。二本松街道は耶麻郡川西組大寺村駅まで2里7町30間、米沢街道は同郡塩川組塩川村駅まで2里31町30間。

七日町と博労町とに問屋を置て往来の荷物を運送せしむ。
この町の内五之町より北を大町名子屋町という。

火見櫓

札辻にあり。小鐘を懸けおき火災を報せしむ。

土産

画蝋燭

この町に齋藤八郎兵衛という蝋燭掛あり。近き頃この品を巧み出せしより今多く広まれり。筆翰竹筍の形真にせまり宮媛の淸翫とするに足れり。

寺院

弥勒寺

この町の西頬にあり。
弥勒寺

融通寺

弥勒寺の北にあり。
融通寺

一桂院

持寶院

誓願寺

實成寺

東明寺

この町の末にあり門南にむかう。
東明寺

善行寺


旧家

簗田仙右衛門

※雄山閣版の風土記には「簗田仙右衛門」と記載してあるのですが、万翠堂版を見ると「梁田仙右衛門」となっていて国立公文書館アーカイブの方も「梁田仙右衛門」と書かれています。おそらく「梁」が正しいかと思われます。

先祖は梁田内匠俊信とて(始義種という)その先薩摩国伊佐郡を領して大町に住せし(ゆえ)世々大町を氏とせしという。
子孫左京盛胤(また肥前と称す)というものあり。康暦元年(1379年)葦名直盛に従て鎌倉より来りこの町に住し市祭を始む。また直盛の命に依て京師に至り、足利将軍義満より会津四郡ならび()隣国までの商人の司たるべき由の仰を蒙り、帰郷の後住吉神社を府城の町口に勧請す(材木町の西にある社なり。併せ見るべし)。新たに市場を開くことあれば、烏帽子直垂を着し商売を従えその地に至り市神を祭り見世割を定めしという。
世々の領主より与える所の文書、今に伝るもの多し。また葦名氏のころより両人の司を任せしにより他邦の出入等をさばきし事その家の日記(元和の頃(1615年~1624年)記せしものという)に詳なり。いまその一二を左に出す。今に至てこの街の検断(けんだん)*1を勤め屋敷地の諸役を免除せらる(凡総町の検断名主これに準じ屋敷地の課役を免除す故に毎条これを註せず)。

※略

古川近江

世々刀剣を鍛ひこの町に住めり。先祖は和泉守兼定にて織田家に仕ふ。その子淸右衛門某、美濃国より会津に来り葦名盛氏に仕ふ。天正17年(1589年)伊達政宗当郡に襲い入り翌年旧領に帰住の時、強て伴うべきよしを命ずれども辭して*2従わず。蒲生氏郷・上杉景勝が時も相つきて給事せり。蒲生家再封の時口量を給せしより、相続て今も扶持米を与え家人の列に次せしむ。
家に上杉家より与えし文書の写あり。左に載す。
    被下置知行目録
高合貳百石者      耶麻郡の内
                宮の前村
   此内七石四斗五升八合不足有
   此物成三石五斗六升五合   御藏より可足候
右可被任知行候但寄小物外也可爲拂藏納候被仰出候以上
    慶長三年戌亥
     十月廿六日    滿願寺仙右衛門判
        兼貞殿
※慶長3年=1598年

菅慶傳右衛門

この町の蝋燭掛なり。専属を傳右衛門某という。
文禄元年(1593年)蒲生家より商家一軒の諸役を免除せられりより今の傳右衛門信重に至て9世ここに住す。
家に古文書の写あり。左に載す。
當町蠟燭掛三拾人之事如前〻町諸役被成御免候條有其心得可被申聞候恐〻謹事
   後霜月廿八日      町野左近助判
               岡半兵衛尉判
        河野九朗左衛門殿
        石岡所右衛門殿


馬場(ばば)

大日本地誌大系第30巻 134コマ目
馬場町口の郭門を出て北に行く通なり。
長5町30間余・幅5軒。家数114軒。
葦名氏のことろは今の郭内本一之丁の地に犬追物の馬場あり(本一之丁の条下に詳なり)。この町件の馬場に続ける(ゆえ)名とすという。文禄元年(1593年)蒲生氏城郭営築のときここに移せり。この地もそのかみ馬場ありしにや。一之丁と二之丁との間の(みぞ)に古き(くい)数本埋れて残れり。往時馬を繋し杙なりという。
この町の内五之町より北の方を馬場名小屋町という。

寺院

観音堂

この町の西頬にあり。
承應の頃(1652年~1655年)坂内宗澤とて豪富の者あり。同3年(1654年)に請て己が宅地を毀ちこの堂を建立す。
堅三日町修験養壽院これを司る。

旧家

坂内孫右衛門

この町の検断なり。先祖は安倍大和守實信とて駿州*3安倍郡を領し足利将軍義輝卿に仕て京師に伺候(しこう)せり。永禄8年(1565年)5月19日松永弾正久秀義輝卿を弑せし時、實信その難に(したが)て忠死せり。實信四子あり。長男を助左衛門實乗といい、本領を失て22歳のとき会津に来り葦名盛氏に請てこの地に住す。二男は安倍迦賀、三男は安倍掃部とて甲斐の武田家に仕ふ。四男は安倍善九郎とて参河*4に参て奉仕せり。寶乗盛氏の命により氏を坂内と改め長くこの地の人となりき。蒲生氏城郭修築の時この所に宅地を与て町年寄とす。子孫代々豪富にして領主加藤氏も(しばしば) 彼が亭に宴せし事あり。その時の饌羞の次第を書せしもの今にあり。
寶物
  • 桃核
  • 綸旨


一之町

馬場町より東の方甲賀町に至るを上一之町とし、また馬場町より西の方大町に至るを下一之町とす。二ノ町三之町等みなこれに同じ共に東西の道なり。
上は長1町47間・幅4間、家数22軒。
下は長2町31間・幅4間、家数46軒。

旧家

倉田藏之丞

この町の検断なり。その先は近江源氏にて本国甲賀郡に住せり。室町将軍の時軍功によりて倉田氏を賜いしより世々倉田を称すいう。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏城郭修理の時その子孫新右衛門爲實というものこの地に来り、氏郷の命を奉し三奉行に与力し町割を定む。因て大町札辻にて宅地を与え町年寄りとせり(今の検断なり)。爲實より今の蔵之丞爲興に至て凡12世なりという。
古文書一通あり。左に載す。
  うけとり申ゑひらくせん之事
一 四拾壹貫三百貳文はかねかいせん残ゑいらく
一 七貫貳百四十文はかりのかけりんのゑいらく
 右うけ取如件
  慶長十九年
    八月廿二日    つほね
      くらたしんへもんとの参る
※慶長19年=1614年
この外寛永中(1624年~1645年)加藤家より与えし文書数通を蔵む。


二之町

一之町の北に並び上は中六日町の角より馬場町まで。
長20間余・幅4間余。家数51軒。
下は長2町31間・幅4間余。家数56軒。

旧家

角田彦右衛門

この町の検断なり。先祖は角田弾正藤原秀義とて延元2年(1337年)11月越前黒丸城落し時会津に来りしという。10世の(えい)*5刑部憲光というもの葦名盛氏に仕て弓大将となる。天正巳丑の乱(天正17年=1589年。葦名家と伊達家の戦い)の後落魄(らくはく)*6し、文禄中(1593年~1596年)蒲生氏城郭修理の時より町年寄となり代々これを勤む。家寶も多くありしが慶長20年(1615年)災に罹て僅に存するもの左の如し。
寶物
  • 國俊懐剣
  • 雁画

風間久兵衛

この町の塩を商うものなり。世系の履歴を詳にせず。その先葦名家に仕ふといい伝う。7世の祖久兵衛信氏という者の時蒲生家より与えし文書あり。左に出す。
當町鹽宿之儀兩人ニ被仰付候然者鹽役之儀從當月毎月以御年貢舛貳石宛岡田吉左衛門方ヘ可相渡候諸商人順路に可有者裁判者也
  慶長六    岡半兵衛
   後十一月十日   之正(花押)
         町野左近助
            繁 (花押)
     鹽屋肥前殿
     鈴木三河殿


三之町

二之町の北に並び上は甲賀町より馬場町まで。
長1町20間余・幅3間、家数23軒。
下は長2町31間・幅4間余、家数59軒。

神社

荒神社

祭神 不明
創設 不明
この町の北頬にあり。
天文22年(1553年)正福寺の僧稱説という者再興すという。
鳥居あり。即正福寺これを司る。

寺院

正福寺

荒神社の北に続く。
山號を竹林山という。真言宗大町弥勒寺の末寺なり。
昔は商福寺といい後改て正福寺に作る。
元和年中(1615年~1624年)炎に罹て旧記焼失し何人の開基という事を知らず。
相伝て天文22年(1553年)沙門稱説宇を修造すという。
本尊不動客殿に安ず。


四之町

三之町の北に並び上は博労町より馬場町まで。
長2町46間・幅4間余、家数24軒。
下は2町30間・幅4間、家数52軒。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
創設 不明
この町の北頬にあり。鳥居あり。

寺院

地蔵堂

この町の北頬にあり。
もと御堂屋敷と唱え応安3年(1370年)と彫付し鰐口あしという。今はなし。
相伝う、往古この堂府城の西北に在て大破せしを葦名盛氏再興す。
文禄元年(1593年)蒲生氏城郭営築の時本町と共に移りしが、慶長中(1596年~1615年)地震に逢て堂舎零落し今は僅の塗籠に安ず。
修験正善院司る。

旧家

萩原小隅

9世の祖を川北三左衛門重宗という。近江の産にて蒲生家に仕え(しばしば)戦功ありしとぞ。天正18年(1590年)氏郷に従てこの地に来れり。子を新助有宗という。加藤家に仕ふ。後明友石州*7に移りし時市井の人となれり。その子吉兵衛武宗氏を萩原と改めこの町に住して甲冑をつくる事を業とせり。吉兵が子吉之丞國重が時月俸を与て家人の列に次せしより相続て今の小隅家邦に至れり。


五之町

四之町の北に並び上は中六日町より馬場町まで。長3町29間余・幅3間、家数22軒。
下は2町30間余、家数39軒。

寺迹2

共にこの町の内にあり。
一は徳壽院といい文禄元年(1593年)に真精という真言の僧開基し光明山と號し道場小路観音寺の末寺なりしとぞ。
一は正壽院といい開基詳ならず。天正巳丑の乱(天正17年=1589年)に兵燹(へいせん)に逢て荒廃せしを蒲生秀行の時再興し宇都宮の産宥慶という僧を住職とす。大和町弥勒寺の末山なりしとぞ。共に住僧なきにより寛文9年(1669年)に廃し蹟を町屋敷とす。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
創設 不明
この町の北頬にあり。鎮座の初を知らず。

寺院

實相寺

高巖寺

この町の北頬にあり。
高巖寺


甲賀(かふか)


馬場町の東に並び甲賀町口の郭門を出て北の方滝沢町組町に通す。
長5町10間余・幅4間、家数95軒。
蒲生氏就封の後江州*8日野より従来る者を置きし所(ゆえ)日野町と號く(徒町井上浄先寺の所蔵本願寺準如が与る書に会津若松日野とある是なり)。加藤嘉明封に就て日火称同きを忌みて同州の郡名に改め甲賀町と名く。今は商家を置き南端に士屋敷1軒あり。

客館

この町東頬堅三日町の北角にあり。
南に門あり。

青藍舎

この町の南端東頬にあり。
師範を置き佐助数員これに隷す。家人の班卑き者より足軽同心等の子弟までここに入れ誦師に就て業を受しむ。俊秀なる者あれば考試して国学に升せまた習書数学等の稽古をなさしむ。国学日新館に隷す。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
創設 不明
この町の西頬にあり。
勧請の年代を詳にせず。鳥居あり。
別当栴壇院
本山派の修験なり。開山覺秀より現住憲意まで17世といい伝う。


大工(だいく)

甲賀町の南端より東の方本六日町まで。長13間余・幅3間余。家数8軒。
この町蒲生家の時は士屋敷ありしが後工匠多く居りし(ゆえ)この名あり。


六日(むいか)

甲賀町の東に並び六日町口の郭門を出て北にゆく通なり。末は上二之町に至る。
長2町15間・幅5軒、家数49軒。
蒲生氏の時市日を定めこの町にて六六の日に市を立てし(ゆえ)この名ありとぞ。
この町の内大工丁より南を上六日町とし北を本六日町とす(大沼郡橋爪組本郷村の条下に天正中(1573年~1593年)葦名盛氏岩崎より黒川城に帰住せし時この町も共に彼地より移りしといい伝う)

旧家

下坂甚左衛門

その先甚兵衛爲康は近江国坂本八郎左衛門康綱が縁者にて幼稚の時より随従し(ことごと)く刀剣を鍛る秘訣を伝ふという。康綱が弟子3人あり三所に分かれ住す。所謂(いわゆる)越前の下坂・筑後の下坂・伊予の下坂なり。伊予の下坂は即甚兵衛爲康にて加藤家に仕え鎗長刀を鍛ふ。寛永4年(1627年)従てこの地に来る。明友石州所替の時浪々せり後、また当家より月俸を与て家人の列に次せしより今の甚左衛門爲直に至る。家に左馬形と称へ鎗と長刀の形を蔵む。昔時(せきじ)左馬助嘉明戦場の利方を考がえ自らこのかたを製し先祖爲康に与る所という。長刀の形は長3尺1寸当時のままにて木像なり。鎗の形は長1尺1寸即爲康が鍜へし所にて嘉明が与しものは失へき。その図左に載す。
※略


博労(ばくらう)

六日町の末に続き滝沢町に至る。
その間5町42間余・幅5間、家数109軒。
この町蒲生家の時博労(ばくろう)*9多く住し(ゆえ)この名あり。また近き頃までこの地に毎年馬市あり。遠近の人多く集れり。今は行人町に移せり(東黒川上河原分の地雑はる)。

寺院

自在院

この町の西頬にあり。
福聚山満蔵寺と號す。会津真言四ヶ寺の一にて江戸護持院の末寺たり。
相伝う、應永30年(1423年)法印長巖今の郭内諏訪神社の側に一蘭若を草創し、十一面観音を本尊とし天満宮を鎮守とすという。その後第9世俊在宗門の義虎たるを以て密家の諸老相招て筑波山智足院を領せしむ。第11世行翁寺境狭くして衆徒領し難きを憂へ領主蒲生氏郷に請て今の地に移せり。11世尊慶が時秀行より寺産50石を付す。その頃までは寶器古文書等多く有しが延享中(1744年~1748年)災に罹て烏有(うゆう)*10すという。今寺領20石を付し封内の封内の末寺凡19ヶ寺あり。
昔は五之町にあり寶暦2年中(1752年)よりこの町に開く。
制札
客殿
庫裏
鐘楼
経藏
観音堂
天満宮
祭神
勧請 應永30年(1423年)
経藏の南にあり。
当院草創の時開山長巖今の高久組天満村より勧請し鎮護の神とす。
相伝て、猪苗代兼載幼稚にして詠歌を好み当院に就て薙髪(ちはつ)*11し恒にこの神に祈り遂に連歌の宗匠たることを得しという(兼載が事耶麻郡川東組小平潟村の条下に詳なり)。
鳥居
両柱の間9尺。
本社
4尺4面東向。
幣殿
2間に1間。2尺。
拝殿
4間に2間。2尺。

寶物

兼載 一幅
大日書像 一幅
菅神絵縁起 三軸


鳥居(とりい)

六日町の南端より東の方横三日町に至る。
東西2町1間余・幅3間余、家数30軒。
この地昔は伊舎須弥(いさすみ)神社の境内にて大なる石鳥居あり。文禄中(1593年~1596年)外郭営築の時社地を削り町を置く。されども通りは(こぼ)たずして町中に在し(ゆえ)町名となりしという。件の鳥居は慶長16年(1611)の地震に(ことごと)く碎け倒れて今礎石のみ存す。加藤氏の時杉山某とて市井を司りし者この石往来の巷にありて無用の物なり、八角の境内に入べし、とて人夫をして挽しむるに重くして動かすこと能はず因て側の地を堀てその中に埋みぬ。その夜杉山が女子俄に物に狂て口ばしりけるは凡有司の職絶たるを継き廃れたるを。起すを以て志とするべきに左は無しで年久き鳥居の礎石を埋み、そのかみの名残だになくせしこと神慮をも(はばか)らず有司の志にも背く。これを罰せんか為め汝が女子の命を断ち7日の中に土中に埋めんと云いて(なお)慄き狂うこと甚し。杉山驚き中夜に人を馳て彼石を掘出し邊に(かこい)を結廻しその上に女子が命(つつが)なくば速に鳥居を造立すべしと祈誓せしが神罰(のが)れ難く7日を過ずして女子身まかれり。爾せしより後人この石を(おそ)れたふとむこととなれり。また往古より死者を葬るに社前を(はばか)りてこの町を通さす、押て通る者は必その家に祟りありという。

神社

伊舎須弥神社

この町の北頬にあり。
伊舎須弥神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
創設 不明
この町の南頬にあり。


(そま)

鳥居町の中ころより南に折れ屈曲して横三日町に通す。
長1町26間・幅3間、家数10軒(紺屋敷及び東黒川蚕養宮村千石町分の地雑はる。


(つきのき)

鳥居町の北に並び長1町53間余・幅3間余、家数30軒。
またこの町の中ころより六日町に通する小路あり。
この地往古大なる槻*12あり(ゆえ)に町名とせり。


堅三日(たつみつか)

槻町の北に並び東は千石町の木戸より西は甲賀町に至る。
長4町41間余・幅4間余、家数85軒。
昔はこの町にて三三の日市立あり(ゆえ)に名く。或はこの町も天正中(1573年~1593年)本郷村より移れる所ともいう。


本郷(ほんがう)

堅三日町の北に並び東は行人町より西は中六日町に至る。
長59間余・幅4間余、家数26軒。
この町も本郷村より移せる所(ゆえ)この名ありとぞ。


中六日(なかむいか)

博労町の東に並び南は本郷町より北は滝沢組町に至る。
長4町27間・幅4間、家数99軒。

旧家

五郎兵衛

長谷川氏にてこの町に住り世次の初を伝えず。世々錫を商いしと見え。家に蒲生家より与えし焼印の板札2枚を蔵む。今も錫を煉(ひさ)ぎ出す。板札の図如左。
※略


野伏(のぶし)

本郷町の北に並び東は行人町より西は甲賀町に至る。
長2町56間・幅3間、家数25軒。
中六日町より東を上野伏町をいい西を下野伏町をいう。もと本郷村岩崎の城下に在りて弓組足軽の居なり。故この称ありという。文禄(1593年~1596年)にここに移せるにや。若くは天正中(1573年~1593年)盛氏岩崎より還りし頃移せしにや。その詳なることは知ず。

寺院

円満寺

この町の北頬にあり。
薬王山と號す。醍醐松橋無量壽院末寺真言宗なり。
相伝う、天文2年(1533年)権大僧都宥元という僧開基す。その後何の頃にか院宇敗廃し殆ど廃せんとするに至れり時に宥繁という者力を()(く)し頽廃(たいはい)を修理し堂塔を再建し旧観に復せり。これを当寺の初祖とす。
本尊大日客殿に安ず。
薬師堂
境内にあり。


中六日町横(なかむいかまちよこ)

野伏町の北に並び、東西1町48間余・幅3間余、家数5軒。
(ゆえ)に五軒町ともいう。

寺院

満福寺

この町の南頬にあり。
如意山と號す。博労町自在院の末寺真言宗なり。
蒲生氏就封の始秀連という僧この地を請て当寺を開けり。
本尊大日客殿に安ず。

旧家

中条道辰

この町に住し刀鍛冶を業とす。その先を長俊といい三善藤四郎政長が弟子なり。その子長重もまた政長に随て学びぬ。長重が子道辰早歳にして政長が子長道が門に入り元禄14年(1701年)京師に赴き伊賀守金道に就て奥秘を極むという。その後自ら造るところの太刀を朝廷に献し若狭守に任ぜらる。帰郷の後月俸を与え家人の列に次れしより今に至て(なお)道辰と称しその業をつけり。若狭守道辰に賜所の宣旨今に伝て家珍とす。その文如左
上卿 櫛笥中納言
 元禄十四年五月七日宣旨
     藤原道辰
     宣任若狭守
     蔵人頭左近衛權中將藤原隆長 奉


堀江(ほりえ)

東黒川蚕養宮村八角分の民居にて中六日町横丁の北に並び、東は行人町より西は中六日町に至る。
長1町10間・幅4間、家数31軒。
寛永18年(1641年)に置き堀江某という者この町の長とせし(ゆえ)名くという。昔は遊女町にて繁華の地なりしが当家就封の後これを止めり(即蚕養宮村八角分の地なり)。


横三日(よこみつか)

六日町の東に並び、南は三日町口の郭門より北は堅三日町に至る。
長2町34間余・幅5間、家数59軒。
昔この町にも三三の日に市立あり(ゆえ)名く。


行人(ぎやうにん)

横三日町の北に続き末は滝沢町組町に至る。
長4町35間余・幅5間、家数65軒。
東の方に小路2条あり。南の小路は東名古屋町に通し北の小路は田間に通す。文禄の頃(1593年~1596年)行壽という行人この地に住せし(ゆえ)町名となれり。この町に年々馬市あり(蚕養宮村と八角分の地雑はれり)。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
創設 建久2年(1191年)~?
この町の西頬にあり。
神體(しんたい)は木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多(あまた)を寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は(いよいよ)荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。


南横(みなみよこ)

三日町の南端より東に折れ臺町に至る。
長2町・幅4間、家数36軒。


屋敷(やしき)

南横町の北に並び、長1町55間余・幅3間、家数26軒。
そのかみ蒲生氏郷の老母住せし屋敷の趾(ゆえ)町名となる(舊事雑考には彼徒を居きし由書せり)。今その時の用水なりとて、井中を水底より石にて疊み上げ布を着せ黒漆に塗れる古井あり。寛永の頃(1624年~1645年)までは士屋敷ありしが改て市店とせり。また加藤成明の時(寛永8年(1631年)~寛永20年(1643年))杉山某という者この地に一寺を建立して杉林寺といい、後杉山罪を得て蟄居し寺もまた(こぼ)たり(寺蹟詳ならず)。


愛宕(あたご)

屋敷町の北に並び、長1町39間余・幅3間余、家数33軒。
この町城東慶山村(南青木組)愛宕山に通る道にて別当金蔵院世々ここに家居するゆえに名けり。この町の中程より北の方堅三日町をへて東名子屋町に出る小路あり。


阿弥陀(あみだ)

愛宕町の東に続き千石町専福寺前通に至る、長58間余・幅3間余、家数25軒。
昔いつの頃にか阿弥陀堂ありし(ゆえ)町名とせしという。


(だいの)

南は縦町願成就寺前通の末より北は阿弥陀町の角に至る。
長1町24軒・幅3間余、家数17軒。
地高の所なる(ゆえ)名けり。
また屋敷町より北野法を浄光寺町ともいう。昔、井上浄光寺この地にありし故名けり。

寺院

薬師堂

この町の北頬にあり。
3間半四面南向。
縁起を按ずるに、至徳元年(1384年)葦名直盛小田山城営築の時鎌倉より移りし場内の鎮護佛とし、寛永14年(1637年)内郭修理の時滝沢村八幡宮の側に移して別当延壽院4世秀純に属して奉持せしむ。正保3年(1646年)秀海が時訴る旨ありて境内に移し世々別当食たり。
別当延壽院
本当の西にあり。
一城山と號す。醍醐三寶院の末寺真言なり。
開山を亮圓という。
慶長6年(1601年)蒲生秀行再封の時密宗の僧侶8人をして国家安全を祈らしむ。亮圓その一なり。これに於いて今の道場を開き蒲生家より寺産50石を付せりという。2世亮榮宇都宮正福寺に移住して寺産を失う。始は延命院と號せしが第4世秀純が時今の號に改む。


(てら)

堅三日町の北に並び、東は餌指町(千石町)の末西は行人町に至る。
長1町38間・幅4間、屋敷28軒。
この地往昔寺院多し(ゆえ)に町名とせり。

寺院

真龍寺

この町の北頬にあり。
京師西本願寺の末山浄土真宗なり。
天正の頃(1573年~1593年)川井某という者菩提心を発し播州*13大阪に赴き、本願寺顯如に就て髪を薙ぎ名を慶善と改め画像の本尊一幅を請い受て帰り小庵を結で住す。これを当寺の開祖とす。2世慶順しばしば京師に往来し寺號及び顯如が影像木佛の本尊等を得て帰り勤行益怠ることなく相続て今に至れり。
本尊弥陀客殿に安ず。背後に『慶長九辰年九月廿三日奥州會津郡後町眞龍寺』と書せり(慶長9年=1604年)。また鐘一口あり。径2尺5寸、『寛延三庚午歳仲冬廿五日願主當舎第六世釋稱慶冶工早山淸左衛門藤原伊次』と彫付あり(寛延3年=1750年。仲冬=冬半ばの一か月。陰暦では十一月)。

本覺寺

真龍寺の西に並べり。
悟空山と號す下野国真壁郡大澤圓通寺の末山浄土宗なり。
天正の頃(1573年~1593年)洛陽東山禪林寺の弟子空山という僧大沼郡向羽黒城下三日町(橋爪組)に一宇の称小刹を建立す。文禄の初(1593年~)氏郷市街宅地を定るに及て諸檀越と共に府下に移り後空と空圓という僧相続て住せしが幾くも無して院宇破壊し再び修理する者なり。元和4年(1618年)の秋下野国小倉圓充寺の僧良乗という者この地に来り忠郷の命に依て当寺に住し廃れたるを再興せり。これに於いて如空山本覺寺と號す。故に良乗を第1世とす。その後世々相承て今に至る。
本尊三尊弥陀客殿に安ず。
鐘一口あり。径2尺3寸余『于時元文五庚申五月日奥州會津若松如空山本覺寺第十二世現住心蓮社良專比丘謹誌』と彫付あり(元文5年=1740年)。


東名子屋(ひがしなごや)

寺町の中程より北の方田圃(たんぼ)に出る道なり。
長1町13間・幅3間、家数17軒(八角分の地雑はれり)。

倉屋敷

この町の末にあり。家人に給する倉米を蔵む。

寺院

妙音寺

この町の東頬にあり。
天台宗福徳山と號す。郭内延壽寺の末寺なり。
開基の年月詳ならず。
舊事雑考元亀2年(1571年)未覺仙法印書すという書付あり。また当時談議所と称せ由を書せり。今はなし。今客殿の側に板戸2枚を遺せり。大和人形の画にて挿刀衣服の製など大に今と異にして極て古画なり。
本尊釈迦客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。


(くみ)

東名子屋町の末より東に行く道にて足軽同心の居なり。
長57間余・幅9尺、家数24軒。
北は倉屋敷にて東南は田圃(たんぼ)なり。またこの町より南に出る小路あり。この邊を北花畑と称す。近き頃置く所なり。

角場

この村の東端にあり。
最終更新:2020年09月30日 21:40
添付ファイル

*1 幕府訴訟制度の一系統で、刑事上の罪を検察、断罪すること

*2 「辞して」の旧字体。断る、辞退する

*3 駿河国。現在の静岡県

*4 三河国。現在の愛知県の一部

*5 血筋の末の者。子孫

*6 落ちぶれること

*7 石見国。島根県西部

*8 近江国。現在の滋賀県

*9 牛や馬の仲買商人

*10 まったく無いこと

*11 髪をそり仏門に入ること

*12 ケヤキの古名

*13 播磨国。現在の兵庫県の南西部