天寧寺

※国立公文書館デジタルアーカイブ「新編会津風土記32」より

山號を萬松山という。
越後国村上耕雲寺の末山曹洞宗なり。
應永28年(1421年)葦名左近将監盛信の建立にて開山を傑堂という。第2世を南英といい共に高徳の智識なり(傑堂南栄が伝下に出す)。これより代々高徳の僧絶えず。
第7世を一気諱正元という。その頃当寺回禄に罹りしが、或夜の暁に1女子来て兼金数百を寄付し当寺を修造せよという。その姓名を問にいらへもせず去しかば人を遣わしてその跡に従はしむ。飯盛山(滝沢組滝沢村にあり)宗像神社の邊にてその形を失しという。
第9世仁庵諱喜怒は葦名盛氏の頃の人なり。盛氏帰依深く永楽100貫文を寄付し雲水僧1000人を聚て結制あり。
第10世祥山諱曇吉が時、天正巳丑伊達の乱に逢い当寺兵火に炎上す。祥山乱を避て京師に至り、一宇を建立し天寧寺という。今に当寺末山なり。仁庵は先に桂山寺に退隠せしが、この時再住せり。
文禄元年(1593年)蒲生氏郷、岡左内に命じて当寺を修造せり。
第15世覧渓諱善尊が時、葦名義広の孫平三郎盛俊秋田角館より使を馳て、瑞雲院の為に寺號及び法脉(ほうみゃく)請う。因て天寧寺と改めこの寺の末山となる。
また昔は12の志院あり。聽視軒・如雲庵・雲亭庵・隣香庵・長林庵・退月庵・連峯庵・真如院・善徳院・寶昌院・厳松院・定林庵という。今(わず)かに善徳・寶昌の2院存せり。
蒲生家・加藤家共に寺領100石を寄付せり。当家封に就に至て寺領を付するこの(ゆえ)の如し。
会津曹洞一派の僧録なり。末寺33ヶ寺あり。

総門

四建門なり

制札

中門の前にあり

中門

四建作にて額に『登龍關』とあり。
この処に石階あり。

山門

4間に2間半。
中門よりこの処まで石階ありて、漸々に登る。

客殿

11間に8間、南向。
本尊観音、長1尺3寸。
脇士不動・毘沙門共に古佛なり。
葦名盛信・同盛氏の位牌あり。盛信の位牌は『寶巖寺殿元慶喜公大禪門 寶徳三年辛未三月十八日』と記し、盛氏の位牌は『瑞雲院殿竹巌宗關大庵主』と記せり。毎年盂蘭盆の時使番の者を遣し香奠を供す。

庫裏

客殿の東に5間に3間の廊下ありてここに至る。
18間に6間。
韋駄天の像を安ず。長1尺4寸古佛なり。

鐘楼

山門を入て右にあり。
2間四面。
縁起に、天正17年伊達政宗寄付の鐘ありしと見ゆ。また河沼郡笈川組下垂川村禅定寺の縁起に、應永22年と銘せる洪鐘ありしが、如何なる故にか寛文の頃天寧寺にありしという。これによれば政宗の寄付せしは禅宗寺の鐘なるも知べからず。
今懸る処の鐘、径2尺。貞亨4年丁卯当寺18世寥堂が時に鑄る。

衆寮

山門を入て左にあり。
11間に4間半。

寶筐印塔

衆寮の前にあり。
高1丈8尺。

善徳院

当寺の塔頭にて山門の外にあり。

寶昌院

当山の塔頭に善徳院の北に並ぶ。

寶物

達磨画

1幅。毘首筆なりといいう伝う。

寒山拾得画

2福對。牧渓筆

竹画

1幅。東坡筆。今はなし。
(※略)

観音画像

1幅。牧渓筆。

山水画

1幅。東坡筆

蒲生秀行證文

1通。その文如左
(※略)

加藤明成證文

1通。

開山傑堂行状

1篇。第2世南英が撰する処なり。
その文左に出す
(※略)

第二世南英行状

1篇。第3世違天が撰する処なり。
その文左に出す
(※略)



最終更新:2020年03月12日 22:43
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