この村旧は丑(北北東)の方2町計にあり。慶長中(1596年~1615年)
山崎新湖出来し後今の地に移るという。
府城の西北に当り行程3里9町。
家数13軒、東西1町18間・南北1町13間。西は青木村の端村船場につづき、三面に田圃ありて北は川に近し。
東は村際にて
曲沼村に界ふ。その村は巳(南南東)に当り3町。
西は村際にて
青木村に界ふ。
南2町16間・北1町23間、共に
青木村の界に至る。その村は西に当り1町40間余。
山川
日橋川
村より丑(北北東)の方10町にあり。
曲沼村の境内より来り、西に流るること2町計
青木村の界に入る。
参照
外部リンク等
堅牢地神社(東河原)
所在 大字青木字三十刈三、八七九
祭日 九月一日
氏子数 十七
祭神 菅原道真
神職 戸内允氏
ケンロウチ神社と異様なまでに呼び名の珍しいこの社は、氏子の数が少く従って祭祀地域が狭くその伝承の古さは時に祭神さえも忘れさせがちになりながらも、部落構成からいえばわずかに二十戸足らずの氏子をもって祭祀の独立を維持し続けて今日に至ったことについては、この社の境内につい最近までそびえておた二本の老杉(分かれた枝からまで板がとれたといわれる)や、このわずかな部落が祖先の祭祀を続けて来た事実や又西隣りの宇内部落に新編会津風土記が「高寺ノ僧徒一石一字ノ経文ヲ埋メ」たといっている。いわゆる雷神山(309メートル)、その山麓には徳一以来の古い信仰で名のある旧国宝薬師如来の祭られている薬師堂を環境としている事実、さらには同じ風土記が古い農耕儀礼の跡を指摘している近隣の見明部落の雷神山の信仰などと相照応して、その固有信仰の根ざすところの深くかつ遠いことを示唆してやまないものがある。
町内の天神(菅公)信仰
町内で菅公を祭神とする社は、この堅牢地社と
平井部落の北野神社の二社に過ぎず、河沼郡全体からいってもこの二社に湯川(笈川か?)・
八日町部落の菅原神社を加えて三社というごくわずかなものであるが、数の点からいえば大沼・北会津の両郡はさらに少くて各一社ずつ、南会津では四社、若松市で六社に過ぎないが、耶麻郡となると一躍十数社に達している。
こうした菅公の信仰が、神社の形をとった場合の呼び名は、明治の神社行政以後においては「菅原」「北野」神社というのが圧倒的であるが、それ以前は俗に「天神様」と呼ばれるように「天神社」が最も多く「天満宮」がこれに次ぐ。平井・北野神社は天満宮であり、八日町・菅原神社は天神社であったが、まれに「天満天神社」と重ねた呼称もあった。
しかしながら、この青木・堅牢地神社の場合はこれらとは全く異なり、その世にも珍しい呼び名は、おそらく中国禅僧・道山良介の著わすところと伝えられる曹洞宗経典・
参同契の『火ハ熱シ風ハ動揺水ハ
潤イ地ハ堅牢』の句に由来するものであろうが、こうしたこの社と曹洞仏教とのかかわり合いは、この社の長きにわたる変遷の一環を物語るものであろうが今は明らかでない。
ともあれ以下述べるような、この社に代表される古い型の天神信仰と、平井・北野神社に代表される一般的な新しい型おそれとのふたとおりの天神信仰が、わずか二社しか存在しないこの町の天神信仰社に、端的に表現されているという事態は、地方民間信仰法の上で極めて異例であり、珍貴な出会いといい得るであろう。
(以下略)
最終更新:2025年10月30日 17:36