府城の西北に当り行程6里。
この地、東西北は
河原田村の山に接し、東西5町・南北8町。
寛文12年(1672年)谷野又右衛門というもの闢ける所なり。
又右衛門は信州高遠より肥後守正之に従い来りしものにて、後この地に陸田を開き羽州最上より苧根を求て種植せり。
延寶2年(1674年)村名を与て谷野新田という。
彼子孫一家相続て寛永中(1624年~1645年)までここに住せしが、高敞の地にありて用水の便少なければ今は
堰沢村の東1町に移れり。
参照・補足
- 谷野新田村の名前は残っていませんが、現在の千咲原付近にあったものと思われます。
外部リンク等
絵図について
上記地図には谷野新田村の記載があるようです
類族帳に見られるように、会津地方に多数の類族者が居ることは知られるが、現在その確証を得られるものは少ない。耶麻郡山都町堰沢の谷野家(当主:賢一郎)は、切支丹類族として今日残る唯一の存在である。
初代谷野又右衛門
初めは太田小太夫実次と称し、後に
谷野又右衛門と改めた。
稲垣摂津守重綱(初め近江国に居住、越後藤井城主、大阪城代、三河刈谷城主、子孫志摩国鳥羽藩主となる)の家臣であったが、故あって浪々の身となり、京都四条室町に生活し、
徳川和子(後水尾天皇の中宮、徳川秀忠の女和子、正之の姉)の家老を勤めていた。
保科正之が高遠藩主になった時、東福門院の推挙で正之の付家老となった。最上藩を経て会津に追従して、禄千石を与えられていた。彼は文学にも長じ、妻かし(駿河国の人)と共に俳諧をよくし、今日の
安原貞室等と交友があり、貞室の添削署名捺印の俳諧一巻が谷野家の家宝として保存されている。
文政六年(1823)、玄孫弥治郎の葬証文に「本人同前谷野又右衛門」とあるので、親がキリスト教信者であって、転宗した時、実次(又右衛門)は幼少で、親同様転宗したものとして本人同前の取り扱いと受けた。
又右衛門は、若松の高巌寺の檀家に属して仏教を宗旨としていた。しかし、彼の遺物から推察すると秘かにキリシタンの信仰を守っていたと考えられる。
又右衛門の帰農
幕府は寛文四年(1664)に、各藩に宗門改役の設置を命じ、天宗者登録制を実施した。会津では翌五年に宗門改役を設け、家々寺々を厳しくせん索した。この年寺院では「宗門改帳」を作製して、役所に差し出させる等切支丹取締まりは一段と厳しくなった。
このころ又右衛門も老齢となり転切支丹本人同前のことや、周囲の事情などを考慮して、帰農することに定め、致仕を願い出た。正之も老齢の上、江戸表勤務も容易でなく、寛文九年(1669)には致仕して、正経に藩主を相続さしているので、又右衛門の願を入れて、何くれと援助の手を差し延べている。
又右衛門が千咲原に、八町四方の土地を賜り、これを開墾して「
谷野新田村」と名付け、親子共に移住したのは寛文十二年(1672)である。この年の十二月には、正之も逝去している。
これより数年前、最初は荒久田に鍬を下ろし青芋を根付けた。この地は城下に近く、切支丹類族も多く、環境が適さないのでこの地を返上した。次に
耶麻郡小布施原二ノ坂新田に六町四方の土地を賜り開墾したが、土地が悪く成功の見込みがないので再び返上した。
最後に千咲原に八町四方の山林を賜り、開墾して青芋の作付を行った。この青芋は毎年
土津神社の御神料として奉納され、その式典には又右衛門は最上席に着座したという。奉納は明治の初めまで続いている。この地は谷野新田村と称し、堰沢村に属していた。この開墾中、毒茸の中毒で四十名も一時に死亡するという悲惨な事故があったとも伝えられている。
最終更新:2025年11月29日 23:10